蛇にまつわる故事成語(六)

第45回   蛇にまつわる故事成語(一)

 今回から蛇にまつわる故事成語を調べていきたいと思います。ヘビにあたる十二支は「巳」です。もともと十二支と、それに当てられた動物とは関係がありません。例えば十二支の最初は子ですが、本来、子にはネズミという意味はなく、十二支の時だけネズミを意味します。2番目の丑も同じです。3番目の寅は、これはあまりにも「寅さん」で有名になってしまいましたが、元々の読みは「イン」で、これもトラとは関係ありません。ところが巳だけはヘビを表す漢字なのです。見た目にも「蛇」という字よりも余程ヘビらしく見えます。「ヘビ」と名付けられた星座を表す文字だったという説が有力です。
 さて《ちゅうごくちゅうどく》では十二支の動物が登場することわざをずっと調べていますが、中には「鶏頭牛後」や「意馬心猿」などのように十二支の動物が2匹出てくるものがあります。蛇にまつわるものにも「竜頭蛇尾」というのがあり、それは竜の項で既に調べました。竜頭蛇尾はかなり知られていますが、現代口語の中で一番よく使われるのは何と言っても「蛇足」と「やぶへび」でしょう。「やぶへび」の方は事情がちょっと複雑そうなので、まずは「蛇足」から調べたいと思います。
 蛇足の出典の話、大方の人は既にご存じでしょう。一番早く蛇を描いた人に酒を与えるとしたところ、一番早く描きあがった人が、酒を片手に「オレには足を描く余裕もあるのさ」と足を描いていたところ、二番手が描きあがるや否や「蛇には足なんかないんだ」と、酒を横取りし飲んでしまいました。この故事から、余計なものという意味で蛇足が使われるようになりました。
 ほとんどのことわざウェブサイトはこれにて一件落着!です。もう少し親切なところでは出典を「戦国策:斉策」と記しています。しかしです。ここ《ちゅうごくちゅうどく》はそんなヘナチョコでは終りません。なにしろ徘徊しながら親切を押し売りするのが田秋老の趣味ですからな。
 蛇足が載っているエピソードは、紀元前323年のことだそうです。この頃、世界ではどういう出来事があったのかというと、バビロンでアレクサンドロス大王が亡くなったのが同じBC323年です。翌BC322年にはアリストテレスが亡くなっています。中華ではいわゆる戦国時代がそろそろ終盤戦にさしかかろうかというところ、孟子や荘子が生きていた時代です。また《ちゅうごくちゅうどく》でお馴染みの、鬼谷先生門下の蘇秦や張儀もこの頃が活躍の時代でした。その少し前には秦で商鞅が活躍していました(BC338頃に処刑)。
 BC325年に秦の恵文君が初めて王を名乗り、BC323年には燕、趙、中山の各君が王を名乗りました。王という称号は王朝の長のみが名乗れるものです(楚だけは例外で、蛮国とみなされた腹いせに相当前から勝手に王を名乗っていました)。この時、形式的にはまだ東周が王朝なのですが、地図を見るとわかりますが(というか、わからないのですが)、領土的にはもはや国とは呼べないような有り様でした。


「ワシは今日から王を名乗ることにしよう」
「秦では恵文のヤローが王を名乗ったでね。わしらも王になろまいか。」
「そうでんな、もう、周のオッサンに気ぃ使うこともないわな。」
「周のモウロクオヤジなんか、もう、おしまいや。恵文だけに勝手なマネはさせへんからね。ボクも王になったるでぇ。」
 世の中の空気はこんな感じで、周に対する畏敬の念など、一かけらもない有様でした。周に対する忠誠心がどんどん無くなる一方で、堂々とポスト東周の駆け引きや争いが行われるようになります。各地で王を名乗るようになるのもその一つの表れです。そのような中、楚の昭陽が魏を攻め、襄陵(地図参照)で大いに魏を打ち破るという事件がおこりました。これがBC323年の出来事です。
 昭陽のことはあまり詳しくはわかりません。楚の高官であることは間違いないようです。一般に蛇足の出典は戦国策だということになっていますが、史記・楚世家にもこの蛇足の話が載っています。戦国策は前漢末の劉向の作、一方、史記は司馬遷の作ですから、年代的には史記の方が早いわけで、何故、蛇足の出典は戦国策、が通用しているのか不思議なところではあります。さて、史記には昭陽の官名が出ていますが、一読しただけでは???となってしまいます。最初に「楚の柱国であった昭陽」とあります。次に、「あなたは既に令尹になっておられます」とあり、その後、「あなたは今、楚の宰相として・・・」と書かれています。素直に読むと昭陽は柱国で令尹でしかも宰相であったわけです。なんにゃ、それ?
 今まで気にも留めず読んでいましたが、一旦?を感じると、気になって気になって、もう夜もロクロク寝られません(ウソです)。
 で、調べてみると、柱国というのは楚の高官のことなのだそうです。ぐっと時代が下って、北周(南北朝の、北朝末期の国)にも八柱国というのがあり、唐王朝の李氏はその八柱国の出です。柱国というのは一人ではなく、高級官僚群、ま、内閣といったところでしょうか。では、令尹とは何かというと、楚特有の官名で、宰相にあたるそうです。令尹=宰相ということですな。これで謎が解けました。日本の天皇さまを王さまだとすると、総理大臣みたいな地位ということですな、大体は。他方、戦国策の方はでは、昭陽は令尹が射程距離に入っている高官ではあるが、未だ令尹ではない地位、と読めます。
 話は戻って、昭陽は魏に攻め込み大勝し、次にその余勢をかって斉に攻め込んだのです。戦国策では「陳軫(ちんしん)が斉王のために使者にたち、昭陽に会った」とあります。ああ、陳軫というのは斉王の家臣なんだな、と思いますよね、普通。そこのところ史記では、「ちょうどそのとき陳軫が秦より使者として斉にきていた」となっています。なんだ、そうか。陳軫は秦の家臣だったのか・・・、そう思います、普通は。
 陳軫という人物は張儀や蘇秦と同じ遊説の客、言い換えれば舌先三寸に命をかける類の輩で、たしかにBC328年以前は秦に仕え、張儀と王の寵愛を競っていました。しかしBC328年、張儀が秦の宰相になるや、楚へ行ってしまいました。ところが戦国策の他のエピソードを読むと、「陳軫が、楚を去って秦へ赴いた」という記述や、BC312年には楚にいたりして、どうも楚と秦の間を行ったり来たりしているのです。ですから生え抜きの秦の家臣ではありません。世間(といっても国家間)を渡り歩いていたのです。
 当時、一時戦国七雄とか言われて群雄割拠だった中原も、ようやく統一の方向に動き始め、その候補は斉、秦、楚の三国に絞られてきていました。ですからこの三つの国は自国の利害によって頻繁に手をくんだり戦をしたりの状態でした。そういう中、そういう国々を渡り歩くということは、命がけだったと思います。例えば秦の機密を知った人間が楚へ行くということは、秦にとっては危険極まりないことで、普通、そんな人間、殺してしまえとなるところです。言いかえれば、そこを舌先三寸で生き抜くところが遊説の士の真骨頂でもあったわけです。
 とにかく、この時は秦の使者として斉にきていたのです。そして、斉を助けるために昭陽に弁舌をふるったのでした。ここでは史記の内容を書いてみます。
陳軫「楚では、敵軍を破ったり敵将を殺したりするとどんな爵位をもらえるんやろか」
昭陽「官は上柱国、爵は上執珪だぎゃあ」
陳軫「その上は何やろ」
昭陽「令尹だぎゃあ」
陳軫「あんた、もう令尹やんか。一番エライ官やん。ボクが一つたとえ話聞かしたるわ。」
そう言うと例のヘビの話をしました。そして
「あんた魏に勝って、もう最高の位にござるのに、また斉に勝ってもこれ以上の位はあらしまへんわな。それどころか、もし負けたら命はなくなるわ、爵位もなくなるわ、挙句、みんなからクソミソ言われるに・・・ほんまやで、悪いけど。これてヘビに足描くのと同じちゃう?それより、ここは兵を引いて斉に恩、着せとく方がええやんか」
すると昭陽は
「みゃあみゃあ」
そう言いながら帰っていきました。
 これが蛇足の話の背景です。私は、この話には「亢竜悔いあり」の方がピッタリのような気がします。「亢竜悔いあり」は易経が出典ですから、陳軫は知っていたと思います、遊説家は勉強家ですからね。それと地面にヘビを描く、ということですが、一体どんな絵を描いたのでしょうか。描く人によってそんなに描く時間が違ってくるものでしょうか。地面に描くのですから、そんなに精密画だったとも思えません。何かウソくさい話ですね。
 今回の、《ちゅうごくちゅうどく》、蛇足の見本と思っておけば、まずは間違いありません。ちゃんちゃん。
 

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