蛇にまつわる故事成語(二)

第46回  蛇にまつわる故事成語(二)

  【藪蛇】
 蛇にまつわる故事成語、本日のお題は《藪蛇》です。「藪を突いて蛇を出す」が縮まったもので、「余計なことをしてしまい、それがもとで却って災難に会う」という意味で使うのはご存じの通りです。
 前回「『やぶへび』の方は事情がちょっと複雑そうなので」と書きましたが(すごい昔のような・・・)、何処辺りが複雑なのかというと、まず、このことわざが [ めいどいんちゃいな ] かどうか、イマイチはっきりしないということがあります。
 色々調べてみて、凡そ言えることは、
1. 日本での由来や出典がはっきりしない。
2. 藪を突いて蛇を出すという中国故事はない。
ということです。
 じゃ、中国故事じゃないんじゃないの!?、と言われそうですが、それがそうとも言い切れないのです。というのは、本家には《打草驚蛇》という諺があるからで、
 草→藪
 打つ→突く
 蛇=蛇
 驚かす→出す
 以上のようにけっこう似ています。故事成語の観点から日本と中国の関係を振り返ってみるに、藪蛇の方が先でそれを中国が輸入して《打草驚蛇》が出来たとも思えません。最近本屋で立ち読みした故事成語辞典には、幕末の本に藪蛇という言葉が出ているので、使われ始めたのはその頃からではないか、と書かれていました。もしこの推測が正しいとすると、やはり中国の方が先だったという考えに説得力が出てきます。ただ、次のような説があるということは頭に留め置いて良いと思います。それは藪蛇の語源を今昔物語に求めるというものです。
 今昔物語巻三十一の「本朝付雑事」に《太刀帯の陣に魚を売る媼の語》という話が収められています。太刀帯というのは「たちわき」或いは「たてわき」と読み皇太子の警護のこと、媼は「おうな」と読み、おばあさんのことです。「皇太子警護の詰め所に魚を売りにくるバァさんの話」というタイトルで、これを要約すると
 今は昔(これは落とせませんな)、皇太子警護の詰め所に魚を売りにくるお婆さんがいました。買って食べてみるとこれがなかなかおいしいので男所帯ということもあり重宝していました。
 あるとき太刀帯が鷹狩に北野天満宮あたり行ったとき、ひょっこり件の魚売り婆さんに出くわしました。
「こんな野っぱらで何をしているんだろう」
 不審に思い、近づいて行きました。この婆さん、籠と棒を持っていたのですが、どういうわけか逃げようとオロオロしています。
「これこれ、その籠の中には何が入っておるのだ」
 そう聞かれても、婆さん、嫌がって見せたがりません。隠されると見たくなるのが人情というもの、無理やり中を覗くと、なんとそこには切り身にされた蛇が入っていたのです。
「これを一体、どうするのじゃ」
 太刀帯が聞いても、婆さんはふてくされて突っ立ったまま。
 実はこの婆さん、藪を棒でひっかきまわし、出てきた蛇を捕らえては切り身にし、それを塩干しにして太刀帯に売っていたのでした。
 「よくもまあ、蛇の毒に中らなかったものだ。切り身になって元が何なのか、良くわからないものはうかつに買わない方が良いではないか」と人々の話題になったそうです。
 以上が、《太刀帯の陣に魚を売る媼の語》のお話で、これが藪蛇の出典だという説があります。一応、藪も蛇も出てきますし、何処となく籠の中身を詮索したことが藪蛇だったのかなあ、とも思えます。ただ釈然としない思いが残ることも確かです。私にはこれが藪蛇の出典だとも出典ではないとも言えません。色々調べた限りでは、少なくともこれを出典とするという考えは主流ではないようです。今昔物語の選者は不詳ですが、大体十二世紀の初めころ(平安後期に当たります)、そのころ編纂されたと推定されています。もし藪蛇の出典は今昔物語だと世に広く認められれば、「藪蛇」は「めいどいんじゃぱん」ということになります(但し、太刀帯の陣に魚を売る媼の話が既に中国の影響を受けている可能性はあります)。

  【打草驚蛇】
 藪蛇に関してはこれ以上のことはわかりません。ここからは藪蛇と関係があるかもしれない打草驚蛇について調べていきたいと思います。
 まず打草驚蛇の出典なのですが、これがまたよくわかりません。今回はわからないだらけですが、ただ、藪蛇とは違い、打草驚蛇の場合は出典の候補がたくさんあってよくわからないのです。この言葉をインターネットで検索すると
1.打草驚蛇
2.草を打って蛇を驚かす
 大体この二つの形で使われていることがわかります。1は原形そのまま、2はその読みです。1が元の漢字表記、2がその訓読なのですから、この二つの出典は当然同じはずなのですが、調べてみるとかなり混乱していることがわかってきました。
 まずは1.の《打草驚蛇》で検索してみます。そうすると出典を《兵法三十六計》とするサイトが圧倒的に多く、gooの辞書では出典を《南唐近事》とし、その他、《酉陽雑俎》(ゆうようざっそ)を出典としているサイトが2件ありました。この《酉陽雑俎》、日本語のサイトではヒットしたのは2件ですが、中国のサイトではゴチャマンとヒットします。
 但、中国では打草驚蛇は「打草惊蛇」、酉陽雑俎は「酉阳杂俎」と表記されるのが普通なので、日本の漢字で入力してもなかなかヒットしません。
 次に2.の《草を打って蛇を驚かす》で検索してみます。やはり《兵法三十六計》が多く、その他《開元天宝遺事》を出典とするものにgoo辞書、@nifty辞書、infoseekマルチ辞書があり、《書言故事》を出典とするものにWikipediaのヘビの項があります。
 インターネット検索はこのくらいにしておいて、書籍ではどうなっているでしょうか。まず、出版されている主なことわざ辞典を調べてみます。まず反対堂(仮名)からは3冊出ていました(もっと出しているかも知れません)。そのうちの1冊には《草を打って蛇を驚かす》は収録されていませんでした。他の2冊には収録されており、一つは《開元天宝遺事》、もう一つは《南唐近事》を出典としていました。また、このうちの一本は「草を打って蛇に驚く」とも言う、と書いてありました。その他、欧文社(仮名)の辞書では《開元天宝遺事》、あすならない出版(仮名)も《開元天宝遺事》、Hakken(仮名)は2冊見ましたが、どちらも《書言故事》、いいわ奈美(仮名)も《書言故事》をそれぞれ出典としていました。何しろ本屋で立ち読みし、その記憶で書いているのでイマイチ自信がありませんが、ま、こんなもんでした。
 次に自宅にある本。諸橋轍次の中国古典名言事典では《書言故事;禽獣比喩類》としています。鄭高詠著の「中国の十二支動物誌」では《南唐近事》、陳舜臣の「弥縫録」では「草を打って蛇を驚かす」を扱っていますが、出典は明らかにしていません。また村松暎著「ことわざに強くなる本」では、「藪をつついて蛇を出す」の項で「草を打ちて(打って)蛇に驚く」ともいう、とあり、「草を打ちて(打って」蛇を驚かす」は全く違う意味と書いてあります。欧文社(仮名)の成語林では《開元天宝遺事》が出典となっていて、「草を打って蛇に驚く」ともいう、となっています。
 「草を打って蛇に驚く」は「草を打って蛇を驚かす」と一見似ていますが、よくよく見ると蛇を驚かしているのか蛇に驚いているのかという点でかなりシチュエーションが異なっています。その意味で前述の反対堂の辞書で、「草を打って蛇を驚かす」を「草を打って蛇に驚く」とも言う、と書いてあったのは問題があると思います(成語林も)。いいわ奈美の辞書にも「草を打って蛇に驚く」が引用され、「全く同じではない」と書いてありました(と思う)。
 以上、色々調べてみるとかなり混乱している状況がわかってきます。ここで出典とされている主な書物をまとめてみると
 兵法三十六計、開元天宝遺事、南唐近事、書言故事、酉陽雑俎
ということになります。
 出典がこんなに幾つも出てくるのは珍しいことです。っていうか、あり得ん〜、と思われるかもしれません。そう、普通はおかしなことです。でもないわけではありません。どういうことかというと、当時いつのまにか人口に膾炙していて、すでに巷で市民権を得ていた言い回しを(記録好きな中国人が)本に収録することがあったのです。その本で初めて語られたことではないので、これこそ掛け値なしの出典!というわけにはいきませんが、とにかく複数の人間が「よし、ことわざ辞典を作ってやろう」と本に書き記すことはあったのです。一般的にはそういうことが言えますが、それでは「打草驚蛇」の場合はどうなのでしょうか。

  【兵法三十六計】
 上記五つのうち、一番新しい本は《兵法三十六計》です。作者(編者)は不明で、明末〜清初くらいに(大体西暦1600年前半?)書かれたようです。その後一旦亡失しますが、1941年に再発見されたという、幸運というか、いかがわしいというか、まあそのような経歴の持主です。《三十六計逃げるに如かず》という諺がありますが、あれとはほとんど関係ありません。「三十六計逃げるに如かず」は宋の将軍、檀道済の採った退却作戦を南斉の将軍、王敬則が評した言葉「檀公の策は数多くあるが、逃げることをもっとも得意とした」が元となってできたものです。ここで宋についておさらいしておきます。中国には宋という国が何回か現れます。五代十国の後に興った趙姓の宋、宋襄の仁で有名になった宋(春秋)、それから東晋の後の、いわゆる南北朝の宋などがありますが、檀道済が活躍した宋は、南北朝の南朝に属する国です(南斉はこの宋に続く)。
《兵法三十六計》に戻って、この書物は昔から言い伝えられた戦いの方法や心得に纏わる教えを集めたものです。ですから、ここに収められている三十六個の教えにはそれぞれ別の出典があるわけで、そういう意味で、《兵法三十六計》を《打草驚蛇》の出典とするのは正しくありません。それはあたかも、ある言葉が故事成語辞典に載っているからといってその辞書を出典だとしているようなものです。では何故、「兵法三十六計」を《打草驚蛇》の出典とするサイトが多いのかというと、理由の一つにこの本には《打草驚蛇》がはっきりと記されているということがあると思います。兵法三十六計という本は全体を6章に分け、各々に6つの格言を置いています。その前から数えて13番目(好きだなあ、この数字)に、この打草驚蛇があります。ここでは守屋洋氏の「兵法三十六計」(知的生きかた文庫:三笠書房)を参考に説明してみます。打草驚蛇の説明として「疑ワバ以ッテ実ヲ叩キ、察シテ後ニ動ク。復スルハ陰ノ媒ナリ」とあります。どうも兵法三十六計という書物は、4文字からなるタイトル(ここでは打草驚蛇)と短い説明(疑ワバ〜以下)、全章同様の構成で成り立っているようです。守屋氏によると、この言葉には二つの意味があるそうです。一つはさぐりを入れて相手の動きを察知するということ、二つ目は蛇の代わりに草を打って蛇の情況を知ろうとことです。残念ながら守屋氏の説明の中には、打草驚蛇の出典の記述がありません。先に書きましたが、中国には兵法三十六計を扱っているサイトがたくさんあります。それを(読めないので)ぼーっと眺めていると、兵法三十六計に載っている打草驚蛇の出典は《酉陽雑俎》なのだと書いてありそうな部分を見つけました。多分、日本のサイトで打草驚蛇の出典を《酉陽雑俎》としているサイトはこの辺りから情報を入手したのではないのかな思います。
 代表的なサイトのリンクをここに貼っておきます。
 http://www.erong.com/wenke/36ji/13.htm

  【酉陽雑俎】
 ここの【探源】という項目に《酉陽雑俎》の名前がみえます。そこに元の話が載っています。
「唐代の時、当塗県の県令に王魯という人がいました。この人物は民財を搾取したり賄賂を要求したりして民を苦しめていました。そこで人々は彼の部下である主簿を告訴しました。その告訴状を見た王魯は
『お前たちはただ草を打ったつもりだろうが、そこに潜む蛇(要するに王魯自身のこと)を驚かせた』
 そう紙に書き、告訴状を決済しました。これは中国語を読めぬ私がよくやる茫然自失中国語読法、〜ただぼーっと文字を見ていてそこから受けるインスピレーションで文を解釈する方法〜、で訳したものです。ま、これとよく似た訳が日本語の兵法三十六計のサイトにも出ていたので、そんなに間違ってないと思います。
 ところで、私の家に《酉陽雑俎》が全巻あります。東洋文庫から出ているのですが、ざっと読んだところでは、その出典の部分が見つからないのです。短い書物ならいざ知らず、この《酉陽雑俎》というのは唐の時代に段成式という人が作った、百科事典のようなもので、東洋文庫で5冊という大著です。初めは「探すの、大変だなあ」とぱらぱらと捲っていたのですが、簡単には見つかりません。そのうち、「ひょっとして《酉陽雑俎》には載ってないんじゃないか」と思うようになりました。第一、こんな大部な本の出典を示すのにただ《酉陽雑俎》だけというのは不親切すぎます。せめてどこの章かぐらいは記しておいても、知ったかぶりして嫌味な野郎だとは誰も思いません。しかし、どのウェブサイトを見てもただ、《酉陽雑俎》と書いてあるだけなのです。どうも怪しい。しらみつぶしに読んで調べたわけではないのですが、どうもなさそうです。状況証拠は他にもまだあります。私の持っている《酉陽雑俎》には索引が付いています。人名索引や地名索引のほか、ありとあらゆる索引が作ってあり、あたかも百科事典の目次のようです。その索引の中に、故事に出てくる「王魯」も「当塗県」も収録されていないのです。《酉陽雑俎》に打草驚蛇の話は載っていない、ということを今はもうほとんど確信しています。

  【開元天宝遺事】
 《兵法三十六計》は真の出典とは言えず、《酉陽雑俎》には故事が(多分)載っていないとなると、残りは《開元天宝遺事》、《南唐近事》、《書言故事》です。
 では次に《開元天宝遺事》について調べてみます。著者は王仁裕と言う人、生没年代は880〜956ですから、唐末〜五代十国を生きた人です。唐末に秦州節度使判官、蜀と後唐では翰林学士、後漢(五代十国の漢、'こうかん'と読みます。ちなみに劉秀が開いた後漢は'ごかん'と読んで二つを区別します)時代には兵部尚書を務めました。めまぐるしく交代する王朝の中、ずっと重要なポストに就いていた優秀な官僚だったようです。さて書物の名前の、開元、天宝というのは唐の玄宗皇帝の時の元号で、要するに玄宗皇帝時代の色々な話を集めたものです。
 さてこの書物を出典としているところはたくさんあります。特にインターネット辞書である、goo辞書@nifty辞書infoseekマルチ辞書は全て《開元天宝遺事》を出典としています。しかも!
 説明の内容が全く同じです。

〔開元天宝遺事「汝雖レ打レ草、吾已蛇驚」〕
(1)ある一人をこらしめることで、それに関係する別の者をいましめる。
(2)なにげなくしたことで思いがけない結果をまねく。草を打って蛇に驚く。

 出典は《開元天宝遺事》であり、そこに「汝雖レ打レ草、吾已蛇驚」という文があり、これが出典となっています。その意味は下の(1)、(2)のとおりです、というのがこの三つのインターネット辞書を引いた結果です。
 一字一句全く同じというところが引っ掛かりますね。何か大本があってそれの丸写しであるかのような印象を与えます。

 では、いよいよこの書物に「打草驚蛇」の話が載っているかどうか、調べてみたいと思います。私の疑り深さも、病膏肓に入る、になってきましたな。藪蛇を調べるまでは、この《開元天宝遺事》という書物のことは知りませんでした。そこでまずインターネットで調べてみると・・・。
 おお!京都大学の電子図書館が《開元天宝遺事》を画像で公開していました。そこでは《開元天宝遺事》を全部見ることができます(但し、2007.11.28現在、京大図書館のシステム障害により閲覧できません)。そこで一応全部を見ましたが(2回)、探し物は見つかりません。昔の人間はモニターよりもやはり実際の本の方が何故か安心します。そこで《開元天宝遺事》が日本で出版されているかどうか調べると・・・
 おお!汲古書院の《和刻本漢籍随筆集》の6に収録されていることがわかりました。それを古本屋で手に入るかどうか調べてみると・・・
 おお!高田書店というところに在庫があることが判明、3000円ということでした。この辺のことはすべてインターネットで調べられます。むっちゃ、便利やねん。そして、一体その本屋はどこにあるんだぎゃあ?と画面をよく見ると、西新井とあります。ん?西新井?北千住から東武線やんか。うちから遠いわけではないけど、仕事では滅多に行かへん方角やなあ・・・、と思いきや!
 何と近々西新井文化ホールでコンサートがあることが判明!。しかぁも、ホールまでの道筋に高田書店があるんだわ。これを天の配剤と言わずして何と言うだぎゃあ。
 何やらびっくりマークだらけですが、とにかく、当日の昼食休憩中にお店に参りました。
「インターネットで見たのですが、和刻本漢籍随筆集の6、まだあるでしょうか」
 お店の方はすぐに奥から本を持ってきて
「これですか?」
「ちょっと中を見ていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
 目次をみると確かにあります。該当ページを開くと、間違いなく収録されています。
「そうです、この本です。これ、ください。」
「ありがとうございます。」
 このお店、どこにでもある、というより、大型店舗が増える今日この頃、よく呑み込まれないものだと思うくらいの小さなお店です。ですが、欲しかった本があと2冊もあったのです。大衆に迎合してしまい(気持はわかりますが)、ロクでもない本ばかり置いている本屋が増える中、店主の気構えを感じる本屋さんでした。
 閑話休題
 さてホクホク顔で家に帰り、じっくりと本を眺めます。この本、本の題名からわかりますが、漢籍なのです。それに返り点などを施した、高校の漢文の時間でお見受けする、ああいう文なのです。ですから、読むというよりはやはり茫然自失読法が適切です。

 さて中身です。それぞれの遺事にはタイトルがついていて、それが本の冒頭に目次のように書かれています。そこには「打草驚蛇」というタイトルはありません。次に本文を順番に眺めていきます。草とか蛇とか、そういう字を重点的に探していきます。意味もわからず、ただ文字を探すだけの作業は疲れますが、仕方ありません。人から見ると非生産的で馬鹿げた作業が、幸か不幸か、私はそう苦にならないのです。その結果はというと、・・・無いのです。草という字は何箇所かありますが、どれも打草驚蛇の話ではないようです。蛇という字に至っては1個も見つけられませんでした。
 ますます、怪しい!?と思うようになりました。しかし、どうせならもっと強く「載ってない!」と言い切りたいと思う気持ちがあります。「ある」ということはその場所を指摘すれば良いのですが、「無い」という証明は、これに比べると随分難しい。茫然自失読法では、見落としの可能性が常につきまといます。それで試しにインターネットに原文が載ってないだろうか、と探してみることにしました。もしあれば、ブラウザの検索機能を使って、もっと確実なことが言えるからです。で、探してみると
 おお!なんと、あったのです。
   開元天宝遺事のサイト
 日本のサイトではありません。中国のサイトです。早速、検索機能を使って「草」と「蛇」を調べてみました。幸い、「草」も「蛇」も、簡体字でも同じです。結果は「無い」です。ついでに「王」も調べました。県令の「王魯」の「王」です。さすがに「王」はたくさんヒットしましたが、王魯さんの「王」はありませんでした。
 今や、声を大にして言えます。
「《開元天宝遺事》には打草驚蛇の故事はない!」
 ひょっとして、同名の書物があるのかしらん?出典を《開元天宝遺事》とする説は、かなり胡散臭いですな。

  【南唐近事】、【書言故事】
 《開元天宝遺事》についてはこれくらいにして、次に進みましょう。残りは《南唐近事》と《書言故事》です。当然ながら2冊とも私の蔵書にはありません。《開元天宝遺事》で味をしめ、インターネットで原文掲載サイトを探しましたが見つかりませんでした。いえ、実はあったのですが、中国サイトで登録が必要、そのサイトに書いてある説明も読めません。こういう大事な部分に茫然自失読法を使用するのは危険です。ということで、登録はヤンピして、次なる一手、国会図書館のお世話になることにしました。今はOPACというシステムがあって、家にいながらにして国会図書館の蔵書を検索できます。いつ頃までかは詳しくは言えませんが、ほんの一昔前までは現地に赴き、図書カードを手作業で調べていたわけですから、ホンマ便利になったわ。
 で、検索すると、さすが国会図書館!2冊とも蔵書としてお持ちでした。但し《南唐近事》はマイクロフィルムでの請求とあったのでこれは多分古典籍資料室(正確な呼び名ではないかも)での請求になるんだろうなとわかります。仕事が予定よりも早く終わったとある日、勇んで行って参りました。図書館についたのが午後3時50分くらい、早速、《書言故事》をPCで申し込みます。
 今の国会図書館の申し込みシステムはほとんどPC化されていて、本人が字を書くのは、コピーしてもらいたい場所の指定のときだけです。総体的には便利になったと言えるのでしょうが、必ずしもそうではない場合もあると思います。PCの操作がよくわからぬ人のために御助け部隊が「いつでも御助けします」とばかりに大勢控えてはいらっしゃるのですが、遠慮深い方などは、「そう何度もお手を煩わしても申し訳ない」と考えるかもしれません。ちょっと、心配になります。以前、PCのPの字もわからぬそうな年配の方が、検索の仕方が分からず、手を挙げ御助け部隊の方に来てもらっているのを目撃しました。懇切丁寧なお手助けの結果、無事、探している本が見つかり、年配の方は丁重にお礼を言われ、御助け部隊の方も返礼されて去られていきました。が、その年配の方、新たに別の本を探そうとなさると、やはり、茫然自失状態になられていたのです。多分、御助け部隊のかたは何度でも助けてくれるのでしょうし、何度説明してもわからん爺さんだな、とも思わないでしょう。ただ、PCに慣れていない人がまた国会図書館に行って調べ物をしようと思うかというと、どうなんでしょうか。ま、私はPCとは無縁の生活とは無縁の生活をしていますから、チョー便利です。
 あー、また横道にそれてしまいました。
 次に《南唐近事》をコピーしようと古典籍の部屋へ行きました。すると、
「即日コピーの申し込みは午後4時までです」
 時計を見れば3時57分、「がびよ〜ん」です。一般図書や雑誌の申し込み時間はもっと遅くまでなのですが、古典籍は時間帯が違うらしいです。3分では本を申し込み、さらに該当ページを見つけ出すことは不可能です。
「4時半までなら、後日受取の申し込みを受け付けられます」
 出来るかどうかわかりませんが、とにかく《南唐近事》を申し込みました。意外に早く本(と言ってもマイクロフィルムですが)は出てきて(2〜3分、普通は20くらいかかる)、それをマイクロフィルムを見る機械にかけ、ずっと見ていきます。それは説郛という本で、《南唐近事》だけでなく、宋代に出た本がたくさん納められていました。その中の《南唐近事》の部分にざっと目を通したのですが、「打草驚蛇」という文字が目に入りません。あ〜時間がない。。。幸いにも《南唐近事》はそう大した分量ではなかったので、結局、《南唐近事》全部コピーすることにし、申込書に記入、後日受取となりました。
 そうこうするうちに30分ほど経ちました。もう本が受付に到着している頃なので図書カウンターへ。国会図書館は入館するときにナンバーつきのカードが発行されます。そのナンバーが今日一日の私のIDとなります。また。PCの操作もこのカードですることになっています。カウンターの前には電子掲示板があり、本が届いた人のIDがそこに表示されます。予想通り私のナンバーが既に掲載されていたので、早速カウンターへ行き本を受け取りました。
 《書言故事》は予想を超えた大部の著作で、全十二巻あります。解題によると、人君、聖壽、父母から鐘、燈火、拾遺に至る二百五十二類に分け、之を十二支の十二集にまとめてあります。この本は宋の胡継宗という人が編纂したそうですが、この宋が北宋か南宋なのかわかりませんし、この人の詳しいことも何もわかりません。
 普通ならこんな大部の著作からしかも限られた時間の中でたった数行の記述を探すのは大変ですが、幸い、中国古典名言事典(諸橋轍次)に《書言故事;禽獣比喩類》とあります。こういう出処の書き方が本来的であり、信憑性も感じさせます。そこで、「禽獣比喩類」の項を順に眺めていくと・・・、

 おお、ありました。そこで、該当ページと解題をコピーし、ほくそ笑みながら家路についたのでした。こういうときって電車の中でもきっと顔が弛んでいるんだろうなあ。さあ、残りは後日複写の《南唐近事》です。確か出来上がりの日は午後から大宮で仕事です。よし、朝イチで取ってこよう!


 そしてあっという間に当日になり・・・。《南唐近事》はA4で二十三枚です。電車が空いていたのでコピーを取り出し一枚一枚見ていきます。この書物は宋の鄭文寶(953-1013)という人の選です。鄭文寶は寧化(今の福建)出身、字は仲賢、最初、校書郎として南唐(937-975)に仕えました。校書郎というのは典籍の校訂をする官職です。その後宋に仕え、太平興国8年(983)に進士となります。その後色々な官職を経て兵部員外郎までになりました。また、篆書を善くしたと言い、彼の作品が現存します。
 さて、《南唐近事》の中身について。一つひとつの話にはタイトルはついておらず、話一個ごとに改行してあります(但し一字下げはありません)。《書言故事》に比べて漢字は読みやすいですが、ずらっと漢字が並んでいる感じで、見やすいとは言えません。中々お目当てが見つからず、これもひょっとしてガセネタか・・・と思いながら、半分を過ぎたころ、ついに「打草」という文字が目に入りました。その話の最初、文字がかすれているのですが、よく見ると「王魯」となっています。「汝雖打草我巳蛇驚」を確認、間違いありません。話の大筋は《南唐近事》と《書言故事》で同じですが、表現が異なっている部分があります。インターネット辞書が三つとも一字一句違わぬことに比べ、如何にも人間の手を煩わせている感じして好感が持てます。

  【まとめ】
 長々と書きましたが、まとめてみます。
 出典とされる本は、概ね4冊(その他の書物を出典としているところも実はあります)。
書名 作者(選者) 時代 判定
兵法三十六計 不明 明末清初
酉陽雑俎 段成式 ×
開元天宝遺事 王仁裕 唐、蜀、後漢、後唐 ×
書言故事 胡継宗
南唐近事 鄭文寶 南唐、北宋
 この五つの書物の中で一番早く成立したのは酉陽雑俎で、次が開元天宝遺事です。しかしこの2書は×か、×が濃厚です。その後が書言故事と南唐近事で、胡継宗の生没年代を把握していなので、どちらが古いかは私にはわかりませんが、鄭文寶が南唐〜北宋なので、南唐近事の方が大幅に遅いということはないと思います。この2書は○です。そして一番新しいのが兵法三十六計で、これは△。後の3冊はいずれも当時すでに巷間で広まっていた故事を拾ったものですから、前にも書きましたが、掛け値なしの「出典」というわけではなく、「初出」ということになります。但し舞台が唐の当塗県とありますから、唐以前ではないことになります。以上のことから打草驚蛇の初出は《南唐近事》或いは《書言故事》とします。

  【おまけ:打草驚蛇と藪蛇】
 打草驚蛇の意味は大きく分けて二つあります。
1.警鐘をならす。
2.探りを入れて相手の状況を掌握する。
 打草驚蛇の本となったのは王魯の「汝雖打草、吾已蛇驚」という言葉です。お前たちは単に草を打っただけなのだろうが、私は草むらの蛇のように驚いた、という意味で、私が蛇だから「驚いた」となっているわけで、草を打った人から見ればこれは「驚かせた」ことになります。決して草を打った人が「驚いた」のではないのです。
 一方、藪蛇はと言うと、その完全な形は「藪を突いて蛇を出す」です。そこには隠れた意味として、(意表を突いて蛇が出てきたので)藪を突いた人が驚いたということがあるわけで、あくまでも驚いたのは「藪を突いた人」なのです。前に「草を打って蛇に驚く」という意味を載せている辞書があり、それには問題があると書きました。多分、藪蛇の引力によって「驚かす」が「驚く」に変化してしまったのだと思います。ですから、「草を打って蛇に驚く」は「藪を突いて蛇を出す」の打草驚蛇バージョンで、言ってみれば、同じ人が着替えたようなもの、と理解しておけば良いのではないでしょうか。
 

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