猪にまつわる故事成語(二)

第44回猪にまつわる故事成語(二)

 王朝が交代する時、国が一旦ぐちゃぐちゃになってしまうことがあります。しかし王莽が新を建国したときは比較的スムーズにいきました。
 漢は既に末期状態でした。陳舜臣によれば、西漢最後の皇帝、平帝は酒色にふけっていたとあります。酒色とは飲酒と色事のこと、政治を顧みずに酒色にふけっていたのですからそれだけでも問題ですが、何とこの皇帝の在位が9歳〜14歳だったというのです。末期症状というよりは既にご臨終、乗っ取られてもしかたのない状態だったのです。他方、外から見ればそれは単に劉家と親戚とのお家騒動です(王莽は劉氏の外戚に当たります)。
「オラたちの生活を良くしてくれるお方なら、誰でもええがね。」
 これが庶民の気持ちでした。
 王莽は情報操作の天才でした。「聖人王莽」報道、奇獣の献呈(「奇獣」は聖天子出現の前兆)などで王莽への期待は膨らみました。しかしいざ蓋を開けてみると、王莽の採ったのは現実無視の復古政策でした。これには全ての階級の人が失望しました。
 例えば土地の国有化政策、これは地方の豪族の死活問題でした。また、農本主義を採ったので商人は軽んじられました。だからといって農民の地位が上がったかというとそういうことはあり得ません。昔の日本の士農工商制度のときの農民の地位を思い出してみればわかります。しかも従わない者には厳罰で臨みました。結果は反乱軍の林立です。流民反乱軍、農民反乱軍、そして豪族武装集団などです。ああ、三つの勢力があったのか、そう思ったあなた・・・読みが甘いどっせー。流民軍がいくつもあり、あちこちで農民反乱がおこるといった按配です。そういうわけで、割り合いスムーズに建った新も、その末期は全土ぐちゃぐちゃ状態に陥りました。
 王莽は西暦23年に敗死、その2年後、劉秀が即位して東漢(後漢)が興ります。歴史年表などで、「25年、後漢成立」などと読むと、ああ、中国は後漢になったんだと思います。しかし中国は物凄く広いのです。考えれば中国全土がそう簡単に統一できるはずがありません。事実、後漢が興った西暦25年の時点で、全土統一はまだ程遠い状態でした。例えば同じ年に公孫述が皇帝に即位し「成」という国を建てています。様々な勢力が乱立しているだけではありません。同じ陣営の中にも、隙あらば独立、乗っ取りを企んでいる人物はたくさんいたのです。魚陽の太守、彭寵もその一人でした。光武帝(劉秀)を輔けた功に驕り、ひそかに乱を企てようと虎視眈眈と機会を狙っていました。
 そういう状況の中、幽州の長官の朱浮は穀倉を開け、賢人を集めようとしました。ところが彭寵は天下がまだ定まっていないことを理由に「軍食の保持」のためと称して穀倉の解放を禁じました。その処置に不満を持った朱浮は、彭寵の不穏な動きを洛陽(首都)に知らせました。この動きに怒った彭寵は兵を挙げ、朱浮を討とうとしたのです。そこで朱浮は彭寵に書を送りました。
「・・・、天子さまをお輔け申してゃのは、何もおみゃあさまばっかしでゃあにゃあでよぉ。おみゃあはこういう話を知っていなさるか。昔、遼東に白い頭のブタが生まれたんだわ。こりゃあ珍しことだで王さまに差し上げねばなんね、そう思った者がござりゃんしてよー、河東まで行かしゃっさったんだわ。そしたらよー、まんず、びっくらこいたでよー、そん辺りのブタの頭はみんな白かったんだぎゃー。もう、こっぱずかしくてなー、こそーっと帰らっしゃったそうだわ。おみゃあさんは、まんず、このブタっ子とおんなじだなも。(中国の中部地方に生まれた朱浮は任地が東北地方になり、その結果、使う言葉に色んな方言が混ざり、意味を理解するのが難しかったそうです。ウソです。)
 この話が元になって「遼東の豕」という言葉が生まれました。「取るに足らない功を誇る(愚か者)」という意味に使います。

 一応地図で場所を確認しておきましょう。遼東とは遼東半島一帯のことで遼河の東に位置するのでそう呼ばれます。下関条約とか三国干渉とか、近代日本との関係では何となく暗いイメージがあります。魚陽は北京の少し北に位置します。魚陽という地名が頭の中に貯蔵されているとうあなた、ちゅうごくちゅうどくに罹っています。時は秦末、陳勝、呉広の話が史記に載っており、徴兵され魚陽の守備に行く途中、大雨で期日までに行けなくなったことが一旗揚げるきっかけになったとあります。陳勝さんは列伝ではなく世家に入っているのですが、そんなに評価が高かったんですかね。この辺り、司馬遷の考え方がちょっとよくわからないところがあります。河東というのは、河は黄河のことですから、黄河の東、そうすると大体、山東省の辺りか、そう思うでしょう。ところがちゃいますねんよ。洛陽と西安の間くらいのところで河がぐぐっと北へ90度曲がるところがあります。そこから何百キロだか知りませんが川筋はずっと南北になります。そこの東側を河東と呼ぶのです。省で言うと山西省あたりです。時代によっては河東という町や郡もあるようですが、この場合は多分地域の名前だと思います。その方が遼東との対比で美しい感じです。
 余計なことですが、河出文庫の中国故事物語・処世の巻では、「江東」となっています。お、畏れながら申し上げます。これは筆者さまの何かの勘違いだと思います。「江」だと長江になります。王さまにブタさんを届けるために長江の方へ行くとすると、そのあたりに王さまがいなくてはなりません。そうなると、呉か越になってきます。しかし、呉も越も遼東あたりまで勢力範囲になったことはありません。遼東に住む人間が呉や越までブタさんを献上しに行くとはちょっと考えられません。まあ、こういう訳のわからない考証をするまでもなく、原文(後漢書)を見ると「河東」となっています。
 さて、遼東の豕に登場する白頭のブタとはどんなブタだったのでしょうか?残念ながら、これについての研究資料は見つかりませんでした。ただ、ブタに関する素晴らしいサイトを見つけました。サイボクぶた博物館というところです。特に中国のブタに関してはここが一番だと思います。是非覗いてみてください。トップページから、ぶた総合大学→ぶた学部→2時間目と進むと中国のブタの品種が画像+説明で載っています。
 今まで遼東の豕は白いブタだと思っていましたが、よく読むと白い頭のブタが生まれたので・・・と書いてあります。それじゃ、他の部分は?、そう思ってもう一度ぶた学部のブタをよく見てみると、その色について次のことを発見しました。それは大きく分けると黒豚、白豚、白黒混合豚の3種あるということです(当たり前か・・・)。
 白豚の頭は白、黒豚の頭は黒(これも当たり前か・・・)、面白いのは、斑点模様のブタを除く(そういうブタさんがいる!)白黒混合豚の頭は黒なのです。これは三毛猫のようにランダムに毛色が配色されるのではなく、ある法則性をもって白黒混合がなされるということです。もちろん寸分違わずというようなものではなく、もっと大雑把に、「頭部は黒」という程度の法則ですが。ひょっとして遼東の豕は、こういう白黒混合型のブタで、たまたま何かの拍子に頭の白いブタが生まれたのかもしれません。ただ、この種は割合南方に多いようなので、遼東という地域を重視した場合、この説には難点があります。
 それでは河東にいたという頭の白いブタはというと、今回の調査では全く手掛かりを得ることができませんでした。白豚だったのか白黒混合豚だったのかもわかりませんが、皆白かったというのですから、そういう品種だということになります。ひょっとして河東では既に品種改良が行われていたのかもしれません。中国人のことですからね、何をしでかすかわかったものではありません^^;)
                                                                     
 

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