竜にまつわる故事成語(二)

第16回  竜にまつわる故事成語(二)

 竜にまつわる故事成語の2回目です。今日は、故事成語の話に入る前に「りゅう」を表す漢字について簡単に調べて見ましょう。現在日本には、「りゅう」を表す漢字が二つあります。「竜」と「龍」です。意味の違いはありません。ただ、「竜」は常用漢字、「龍」は名前に使える漢字ということになっています。「ちゅうごくちゅうどく」では、便宜上、「竜」で統一しています。
 中国最古の字書「説文解字」(後漢:紀元後100年 / ああ、このころ日本では何してたのかなあ・・・) では「龍」という字を「左上の【立】は【童】の省略形で音を表す、その下の【月】は肉月で動物を表し、右側はそのものが飛行している形」と説明しています。ところが・・・
 左は、金文文字で書かれた「竜(龍)」の一覧表です。金文文字とは殷末から周にかけてさかんに鋳造された青銅器に彫られた文字のことです。この表では右の文字が古く、左にいくに従って新しい文字になっています。
 この字は上の表の右から6列目、最下段の字で、「竜」の元になった字です。

 一方こちらは、一番左にある文字で「龍」の原型です。このことから、「竜」の方が古い字体を元にしていることがわかります。また、「龍」は説文解字で説明されているような色々な部品を組み合わせて作られた文字(形声文字)ではなく、象形文字であると解釈したほうが事実に近いこともわかります。ただ、この研究はまだ新しく、辞書などでは「龍」は「形声文字」として扱われています。

 さて、漢字の話はこれくらいにして故事成語に戻りましょう。本日のお題は「画竜点睛」です。
 この言葉、普通は「がりょうてんせい」と発音します。「竜」を「りゅう」と発音するのは「慣用音」、「りょう」は「漢音」です。「漢音」は漢代の発音かと思ったら、唐代の長安付近の発音がなまって日本に伝わったものなんだそうです。ややこしいことに「唐音」というのもあります。これは「唐代」以降に日本に伝わった字音の日本語化したものです。「行灯=あんどん」、「提灯=ちょうちん」、「鈴=りん」などです。
 「画竜点睛」の意味は、最後に一筆加えることによって作品がぐっと引き立つこと、また、「画竜点睛を欠く」と使うと、いい作品なのだが、あと一押しが足りない、というようになります。
 梁(AD502〜557:南北朝時代)に張僧ヨウ(ちょう / そうよう)という人がいました。役人で、将軍で、さらに画人でもあるという、色々な才能を持ち合わせた人物でした。
 今の南京、当時は建康と呼ばれ都でもあった町に安楽寺という寺がありましたが、あるとき、そこから壁画を描いて欲しいと頼まれ、張僧ヨウは竜を描きました。ところが、どういう訳かひとみ(睛)を入れませんでした。人が不思議に思いその訳を尋ねたところ、
 「ひとみを描くと、飛び去るからだ。」
と答えました。けれども誰も信用しません。
 「ほんだらばがなこと、ありもうさんばってん、どんぞ目ん玉っ子入れてけろさ(梁の武帝は地方言語を取り入れた統一言語を作りました。うそです)。」
 人々があんまりやかましく言うので、張さんは竜の画に睛(ひとみ)を入れました(竜の画に睛を点じる)。しばらくすると雷鳴がとどろき、稲妻が走る中、壁が崩れて、その中の竜は雲に乗って飛び去ってしまいました。
 以上が、画竜点睛の故事ですが、この話の出典については気をつけなくてはいけません。というのは、出典とされる書物が二種類あるからです。一つは「歴代名画記」、もう一つは「水衡記(すいこうき)」です。
 実は私は、今まで「水衡記」が出典だと思っていました。さらに告白すれば「歴代名画記」という本の存在も知りませんでした。何故「水衡記」を出典だと思い込んでいたかというと、愛用している故事成語の本(「中国故事物語・教養の巻」河出文庫)で出典を「水衡記」としているからです。幽霊とかUFOの話ならいざ知らず、この手のものは専門家が書いていれば、大体無条件に信用してしまいます。
 「え〜、水衡記?なんだか胡散臭いなあ。」
とは普通は思いません。
 では、どうして、出典が二つあることに気がついたかというと、この項を書くにあたって、「水衡記」について調べてみようと思ったからです。なにしろ「ちゅうごくちゅうどく」は出典を探るのが第一目的なのですから(そういえばそうだった・・・)。
 大体、「水衡記」という本を私は持っていませんし、そもそも、どういう本なのかということも全然知りませんでした。それで、インターネットで検索してみましたが、「水衡記」そのものを説明したサイトを見つけることはできませんでした。それから思わぬネットサーフィンが始まり、随分探しましたが、結局、判らずじまい、ついに私が最後の拠り所とさせていただいている黄虎洞伯泉齋先生(大学の先生のサイト、ここで中国関係の質問を受け付けてくださっています。オススメです。ページ最下段左の「戻る」でトップページへジャンプします。)にお伺いを立てたところ、早速回答がありました。
 「画竜点睛の出典は唐の張彦遠が著した『歴代名画記』の中の六朝時代の梁の張僧ヨウの話に出てきます。ご質問の『水衡記』は、確かに大漢和辞典で出典としていますが、『水衡記』は著者不明の六朝時代の地理書で、現在散逸して亡んでおります。その断片を集めたものも『五朝小説大觀』などに在りますが、その中には『画竜点睛』の話は有りません。」
 「え、『水衡記』じゃないの?」
 そうだったのかあ、道理で、『水衡記』を調べてもはっきりしたことがわからなかったはずです。それにしても、さすが本職!
 この回答をいただいた私は「歴代名画記」を求めるべく、早速、神保町サーフィンにでかけました。岩波文庫と東洋文庫で出ていましたが、岩波の方は旧仮名遣いで読むのが苦しそうなので、東洋文庫のほうを買い求めました。ありました、ありました、画竜点睛の話!
 さて、この回答を読む限りでは、出典の老舗を名乗るには「歴代名画記」がかなり有利です。ただ、「『水衡記』は、確かに大漢和辞典で出典としていますが」という部分にひっかかります。これは諸橋轍次という中国語の巨人が編纂した大変権威ある辞典です。うちに彼が作った「中国古典名言事典」あるので調べてみると、やはり、出典は「水衡記」となっています。
 私が持っている本の中では、前述の「中国故事物語・教養の巻」(河出文庫)と「中国古典名言事典」が「水衡記」説、三省堂「新漢和中辞典」と学習研究社「漢字源」が「歴代名画記」説を採っています。陳舜臣の「弥縫録」は画竜点睛を取り上げながら、出典を明らかにしていません。
 不思議なことは、「中国古典名言事典」には「水衡記」からの引用として、画竜点睛の漢文が載せてあることです。このことは先の黄虎洞伯泉齋先生のメールの内容とは真っ向から対立します。一方、インターネットで図書館の検索もかなりしましたが、「水衡記」を蔵書としているところはありませんでした。この事実は、黄虎洞伯泉齋先生の指摘を裏付ける有力な傍証になります。
 また、出典が混乱しているのを象徴するかのように、各本に載っている話の細部は微妙に異なっています。張さんが描いた竜の数については、2頭、4頭の二説があります。また、雲に乗って飛び去った竜の数にも1頭説と2頭説があります。ただ、2頭描いて2頭とも飛び去ったという説はないようです。すなわち、2頭描いて1頭飛び去った(「中国故事物語・教養の巻」河出文庫)、4頭描いて1頭飛び去った(陳舜臣著「弥縫録」中公文庫)、4頭描いて2頭飛び去った(東洋文庫「歴代名画記2」)などです。

 画竜点睛は南北朝の梁のときの話であることは最初に書きました。梁は王朝としては短命で55年で滅びましたが、初代皇帝の武帝はそのうち47年間皇帝の地位にありました。55年間の王朝で、47年間天子であったということは、梁という国はほとんど武帝一人の王朝であったと言っても過言ではありません。ところで、この武帝、実は西遊記に関係があるのです。ううむ、人は見かけによらぬもの。もっとも、西遊記に登場するとかといった、直接の関係ではないのですが・・・
 武帝はこの時代としてはまれにみる寛仁君主で、文を重んじ、自ら第一級の文人であったこともあり、南朝文化の黄金期をもたらしました。しかし、47年も皇帝をしていると唐の玄宗同様、次第に政治に飽きてきます。玄宗は楊貴妃に夢中になりましたが、武帝は仏教にのめり込んでしまいました。それはけっこうなことだと思われるかもしれませんが、彼の場合は度が過ぎていました。
 捨身ということを行いました。これはどういうことかというと、俗界を離れ、法界に身を置くことで、具体的に言うと、皇帝をやんぴして、なんと、お寺で奉仕する奴隷になってしまったのです。群臣は慌てふためき、莫大な銭(一億万とあります。一兆のことか?)で皇帝を買い戻すという騒ぎになりました。しかもこういうことを何度も繰り返したのです。まあ、その善悪は別として、後世、梁の武帝には、「手厚く仏教を庇護した皇帝」という評価がなされるようになりました。
 ここで、話はガラッと変わります。
 福建省泉州に開元寺というお寺があります。左の写真はそのお寺にある二つの塔のうちの西塔です。泉州というのは、唐代からひらけ、宋代には国際的な大貿易港となり、元末まで栄えた港町です。マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも「ザイトゥン」という名前で出てきます。
 「その貿易額からいって、ザイトゥン市は確実に世界最大を誇る二大海港の一であると断言してはばからない。」(愛宕松男訳『東方見聞録』)
 さて、この写真の塔をよく見てください。建物は八角形をしています。八角形というのも中々興味ある形なのですが、今は触れません。一階部分、日のあたっているところに注目してください。真ん中に窓のようなものがあり、その両脇に人物らしいものが浮き彫りになっているのがわかるでしょうか。実はここだけではなく、すべての面にここと同様の浮き彫りの像があります。この塔は8角5層ですから、全部で40面あり、1面2像で80像、塔は東西2塔ありますから、合計160の仏教的浮き彫り像があるのです。
 その中にこのような壁面があります。実は、右が武帝、左は我らが三蔵法師なのです。写真ではわかりませんが、右の人の右上と左の人の左上にそう書いてありますから間違いはありません。
 これまでの研究により、これは玄奘三蔵が帰国後、梁の武帝にお経を差し出しているところであろう、ということになっています(西遊記研究の大御所、太田辰夫氏の説)。
 えっ、年代に矛盾がある!
 そう思ったあなたは、ちょっと鋭い!
 まあ、そのくらいのことは「ちゅうごくちゅうどく」の読者ならすぐ気がつきますよね。実際、武帝の方が100年ほど前の人物で、こういうシチュエーションは現実としてはあり得ません。
 なぜ、このような対が彫られたのか、定かではありませんが、その原因は三蔵法師の方にありそうです。三蔵法師はその偉業により、死後、すぐに伝説化が始まりました。その作業の中で、色々なシチュエーションが生まれたようです。一例を挙げるならば、今昔物語の中の玄奘は、玄宗皇帝の時代の人となっています。
 三蔵が天竺から持ち帰ったお経を受け取るのは、仏教を手厚く庇護した梁の武帝がふさわしい、という民衆の願望が、長い時間を経るうちに歴史的事実としの地位を固めていったのではないでしょうか。
 さて、この浮き彫りと同じ階にこういう壁面があります。左の人物には「東海火龍太子」という銘文があります。右の人物(?)には何も書いてありません。しかし、これ、見れば見るほど、孫悟空というか、そのご先祖様の「猴行者」に見えてきます。
 どこが孫悟空らしくないかというと、武器が違います。この浮き彫り像が刀を持っているのに対し、孫悟空の分身ともいえる如意棒は東海火龍太子の手元にあります。もともと、東海火龍太子の武器であったものをぶんどったのでしょうか?現行西遊記では、東海竜王のところで半ば強奪するノリで如意棒を頂いてくることになっています。私は、この一連の浮き彫りは当時この地で話されていた「西遊記」を反映しているのではと思っています。
 泉州が当時、世界最大の港であったことを強調しました。これが示唆するところは、孫悟空の形成に少なからず影響を与えたインドの「ラーマーヤナ」に登場する空飛ぶ英雄的おサル、「ハヌマーン(呼び方は色々あります)」の話が海を渡って(陸からではなく!)、ここ泉州にまず上陸したのでは、ということです。これは同じく西遊記研究の権威、中野美代子氏の仮説で、大変魅力ある説だと思います。

 今日はここまでです。まあ、東海火龍太子が出てきたので、「竜にまつわって」いることにしましょう。

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