虎にまつわる故事

第八回   虎にまつわる故事成語 (一)


 第四回 「三蔵法師」の最後の方に、三蔵法師は孫悟空の前は虎を引き連れていた、というようなことを書きました。孫悟空を引き連れた三蔵法師は史実から十万八千里くらい離れています。ところが、虎を引き連れた三蔵法師というのは、もっと、歴史に近いところにいます。とりあえず、ここをクリックしてみましょう。
 これは、その筋で「虎を連れた行脚僧」と呼ばれている絵で、絹の上に描かれており、1900年に発見された敦煌莫高窟「蔵経洞」に秘蔵されていた万巻の文書典籍絵画の中の一つで、現在はフランスのギメ国立東洋美術館が所蔵しています。
 西遊記の権威筋では、これは玄奘であるという説が有力視されていますが、未だ、万人が認めるところまでには至っていないようです。制作年代は9世紀末(唐末)とされていますから、玄奘が亡くなってから(664年)200〜240年後に描かれたことになります。
 では、次にここをクリックしてみましょう。これは西夏時代(12世紀後半〜13世紀初)に楡林窟に描かれた壁画です。前出の絵より300年くらい後です。ここに描かれている僧は間違いなく玄奘三蔵でしょう。何がどうなったのか、取経僧の伴が虎からサルに換わってしまいました。
 簡単に書くと次のようになります。  

僧(玄奘?)+虎 ⇒⇒⇒ 300年 ⇒⇒⇒ 玄奘+サル

 虎を引き連れた僧が玄奘であるにしろ、そうでないにしろ、虎を引き連れた取経僧というプロットは、西遊記の孫悟空誕生に大きな影響を与えたことは間違いありません。
 この300年は資料が適度(?)に乏しく、いかにして虎がサルに変化していったのか、格好の研究材料になっています。しかし、その話題に突入すると、ここが西遊記研究の場になってしまいます。ここは理性をもって、踏みとどまることにしましょう。
 ではそもそも、何故、行脚僧(玄奘?)に虎がお伴をすることになったのでしょうか(あんまり踏みとどまっていないなあ)。
 その理由についても色々あります。一つは、虎が中央アジアで最も強い動物であるから、という説です。その強い虎に守ってもらおう(守護神)というわけです。この説より遥かに興味深いのは、五行思想に結びつけた考え方です。五行思想とは、コジツケの大統領か国家主席みたいな思想です。例えば、東は木で、春で青で龍です。青春とか青龍刀とか。西は金で、秋で白で虎です。白秋とか白虎隊とか。 取経の旅は西への旅ですから、西だったら虎だろう!?、という発想です。コジツケの上、単純です。因みに西遊記の権威、磯部彰氏やチベット文学の権威、山口瑞鳳氏は、インドの十六羅漢から中国の十八羅漢への移行の研究から(この辺りは一言で説明できません)、虎を連れているからこそこの行脚僧は玄奘なのだという結論を導いています。
 私は、コジツケ単純の「西は虎だろう!?」説を支持しています。何故かというと、十二支ではサルは西に位置し(子[ネズミ]を上にして十二支を時計回で輪のように書くと、サルは9時の位置にきます。上を北とすると9時は西)、一般大衆にとってより身近な十二支が、五行思想にとって代わって行ったのではないか、と推測しているからです。

 今回は虎にまつわる諺を紹介しようと思って、その枕の話として「虎を連れた行脚僧」を持ってきたのですが、あまりにも大きな枕になってしまいました。「本日はこれにておしまい」でも良いくらいの分量なのですが、それでは、「ちゅうごくちゅうどく」の諺紹介というコンセプトからはずれてしまいます。そこで今日は一つだけ、虎に関係ある故事成語を紹介しておきましょう。

 「虎穴にいらずんば、虎子を得ず」
これが本日のイチオシです。
 意味は、「危地に飛び込む覚悟がなければ、貴重なものは得られない」です。班超という人が言った言葉で、「後漢書」「班超列伝」に出てきます。班一家で一番有名なのは班固です。ピンとこない人もいるでしょうが、漢書を書いた人です。もっとも、書き始めたのはお父さんの班彪で、その後を受け継いだのが長男の班固、班固がほとんど完成させ、少し残った部分を妹の班昭が書き上げました。 こんな大事な仕事をしていた班家でしたが、家は貧乏でした。

「兄上、朝から晩まで竹簡だか竹輪だかに文字刻んで何が面白いんですか」
「何を言う。これは父上がお上から命ぜられた大事な仕事なのだ。」
「大事な仕事なら、もっとオゼコくれてもよさそうなもんじゃあ、あっりませんか。お上もケチですね。」
「これ、口が過ぎるぞ。司馬遷殿が史記をお書きになられたからこそ、中国の歴史は永遠に不滅です。」
「司馬遷か柴又か知りませんがね、今や、班家は貧乏で有名なのですよ。この間なんか、やあ、キングボンビー君なんていわれましたよ。母上も寄り合いにいっつも同じ服きていくわけにいかないし。この間なんか、裏返しに着て『リバーシブルよ』なんておっしゃってました。昭もパーティーには虎の毛皮のコートを着ていきたいでしょうに。この前の宮廷晩餐会には父上の形見のドテラを『ニューウエーブよと言っておくわ』といって羽織っていきました。」
「超よ、物欲に捉われてはいけないよ。」
「私は貧乏はいやです。出世してお金持ちになるんだ!」

 注:この会話はどの文献にも載っていませんので、人には言わないようにしましょう。


 そこで、出世するには軍功をたてるのが早道と、軍隊に入りました。
 当時、西域に「ぜん善国」という漢と匈奴に挟まれた小国がありました。小国の悲しさ、ぜん善国はどちらにも愛想を振りまいて臣下の礼をとらないと生きていけませんでした。あるとき、班超は使節としてぜん善国に向かいました。最初は至れり尽せりの応対ぶりでしたが、しばらくすると待遇が悪くなってきました。そこで班超、ピンときました。
 「さては、匈奴からも使節が来たのだな。」
 そこで彼は部下に、
 「うかうかしていると匈奴の捕虜になってしまうぞ。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。ここで匈奴の使節団を叩けば、この国を完全に漢の支配下におくことも夢ではないぞ!」
 そう言って、自分達の何倍もの人数のいる匈奴の使節団に決死の覚悟で突入しました。そして見事匈奴を討ち果たしたのです。
 これが「虎穴に入らずんば虎子を得ず」が成立した前後のいきさつです。この故事には虎子は貴重なものという暗黙のお約束があります。虎の毛皮というものが高価なものであり、子供の虎の毛皮は柔らかくて特に貴重だったのでしょう。
 かくして、班兄弟、兄は漢書の作者として名が残り、弟は口にした言葉が諺として残りました。


 次回の「ちゅうごくちゅうどく」は「虎にまつわる故事成語(二)」です。

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