虎にまつわる故事(二)

第九回   虎にまつわる故事成語 (二)


 前回は枕の話が長くなりすぎて、本題があまり書けませんでした。今回はそこを厳しく反省し、すぐに本題に入ることにします。

  虎の巻
 この言葉は、六韜(りくとう)という書物に由来しています。この書はいわゆる武経七書(「孫子」、「呉子」、「司馬法」、「李衛公問対」、「尉繚子(うつりょうし)」、「三略」、「六韜」)の一つで、太公望と周の文王、武王との問答形式で書かれています。ただし、著者は太公望本人、或いは、その時代の人ではなく、後代(戦国時代という説が有力です)の人が、太公望に仮託して書いたもののようです。
 「韜」というのは、弓を入れておく袋のことですが、ここでは巻という意味で使われています。ですから、六韜をわかりやすく言えば、「六巻からなる(兵法書)」という意味になります。そしてそれぞれの巻(韜)には名前がついています。即ち、「文韜」、「武韜」、「竜韜」、「虎韜」、「豹韜」、「犬韜」です。この四つ目の虎韜から虎の巻という言葉がうまれました。では、何故、この六巻の中から特に虎が選ばれたのかというと、どうもはっきりしません。この巻が優れているからという説がありますが、あんまりピンときません。どなたかご存知の方は教えてください。

  虎の威を借る狐
 意味は、「有力者の権威を笠に着て威張ること」です。出典は、戦国策の中の楚策で、話の内容はこうです。
 あるとき、虎が狐を捕まえました。そこで狐は、
 「君は私を食べてはならない。天帝は私をすべての獣の長となさったのだ。私を食べるということは天帝の意に背くことだ。うそだと思うなら、私の後についてきて確かめるがいい。」
 虎はもっともなことだと思い、狐の後ろをついて行ったところ、狐に出会う獣はみんな逃げ出しました。勿論これは獣たちが、狐ではなく、その後ろにいる虎を恐れたからなのですが。
 この話は、楚王が、他国が昭奚恤(しょうけいじゅつ:楚の宰相)恐れているのは本当か、と尋ねたのに対して江乙という人物が述べた話に出てきます。彼は、昭奚恤が狐で、諸国がおそれているのはその背後にある楚でございます、と言ったのです。この話だけを見ると、昭奚恤が佞臣で江乙が忠臣のように思えます。しかし、江乙は魏と内通し、昭奚恤はそれに感づいていたらしいのです。昭奚恤は江乙にとって目の上のたんこぶで、どうも、江乙が昭奚恤を蹴落とそうしていたというのが真相のようです。いかにも戦国時代らしい、というよりは、いつの時代にもありそうな話です。ちなみに西洋では、「ライオンの皮をかぶるロバ」と言うそうです。

  三人市虎をなす
 大勢の人が言うとデマも真実であるかのように聞こえる、という意味で、これも戦国策の中の魏策が出典です。魏の恵王とほう葱という人の会話に出てきます。
 ほう葱が太子とともに趙の邯鄲へ人質としていくことになりました。
 「ある人が、市場に虎がでました、と言ったら、王様はお信じになりますか?」
 「信じるものか!」
 「では、二人が、市場に虎がでました、と言ったらどうですか?」
 「半信半疑であろう・・・」
 「それでは、三人が言ったらどうです?」
 「それは、信じるだろう。」
 「そもそも市場に虎などでるものではありません。それでも、三人の人がそういえば、信じてしまいます。私が去れば、私を悪く言うものは三人では 済みますまい。」
 「私は自分で確かめるとしよう。」
   こう言い残してほう葱は去りましたが、果たして彼を悪く言う物が現れました。そうして、太子の人質が解かれた後もほう葱はついに帰ることを許されることはなかったのです。
 この魏の恵王という人物、それほどの名君ではありませんでしたが、故事成語に関与しているという点では重要人物です。この「三人市虎をなす」の他に「五十歩百歩」とか、少しマイナーですが、「未だ仁にしてその親を遺つる者はあらざるなり」とかの誕生にも関わっています(孟子「梁恵王章句上」)。

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 虎とは違いますが、豹変という言葉があります。
 君子豹変す、というと、現在では、おとなしく見えていた人が、突然、本性を現し、恐ろしい人物になる、というような意味で使いますが、原義は、だいぶ異なります。
 出典は易経の「革」の項で、「大人(たいじん)は虎変し、君子は豹変し、小人(しょうじん)は面を革(あらた)む」とあり、虎とか豹が季節の変わり目に毛が抜け変わって美しくなるように、大人も君子(大人には及ばないが)もすばやく鮮やかに変化に応じる、それに比べて小人は顔色だけが変わる、ということを述べています。このように、元来は、良いイメージで使われていた言葉です。
 易経からもう一つ。「虎視眈々」です。この言葉は以前少し触れましたが、出典は、易経の「頤(い)」の項です。今は、機会あれば侵略しようとする、という意味で使われますが、豹変同様、原義は異なります。原義は、「(政治は下位の者に任せ、)上から睨みを利かせておく」という意味です。
 有能な人間に政治を任せる、それは良いのですが、うっかりすると、国を乗っ取られるおそれがあります。そうならないように、睨みは利かしておく、というのが、虎視眈々の本来の意味です。
 易経にはそのほか、「虎の尾を踏む」というのがあります。これは、非常に危険な状況に遭遇するということで、「履」という卦に出てきます。

  騎虎の勢
 この言葉は、隋を建国した楊堅(文帝)の妻が夫を励ますために述べたものです。
 隋は、それまで長らく分裂状態であった中国を再び統一(589)した国です。いつから分裂時代にはいったとするかにもよりますが、西晋の滅亡(316)から数えるなら、270余年ぶりの統一でした。その楊堅が統一に向けて奔走していたとき、妻が次のように言って夫を励ましました。
 「千里の虎に乗ってしまった以上、もう降りることはできません(騎虎の勢下ることを得ず)。降りれば食われてしまいます。虎とともに最後まで行かねばなりません。大望成就のために、途中でくじけず、最後までがんばってください。」
 これが「騎虎の勢」の出典です。楊堅も英傑でありましたが、このような表現で夫を励ますことのできる妻も相当な人物だったようです。
 彼女は14歳で楊堅の妻になりましたが、その時、自分以外の女に子を生ませないことを楊堅に約束させました。今でこそ当たり前の話ですが、一夫多妻制が常識であった当時の貴族社会においては、これこそ異常なことでした。
 それで文帝がこの約束を守ったのかというと、なかなかそうはいきません。内緒で愛していた女性がいたのですが、見つかってしまい、皇后に殺されてしまいました。その時、文帝はどうしたか?
 山へ逃げてすねてみせたそうです。時の最高権力者がです!
 その後、皇后が亡くなり(602)、それを契機として文帝の生活はみだれはじめました。嫉妬する妻がいなくなり、堰を切ったように女遊びが始まり、彼の命を縮めたとも言われています。
 余談ですが、隋という字について。元々楊堅は随国の人間でした。この「随」には「シンニュウ」があります。これには走り去るという意味があり、走り去って短命で終わってはならないので、これを取り去り、今までになかった新しい「隋」という文字を作り、これを国号としました。そうやってゲンを担いだにも拘らず、短命で終わってしまいましたが。
(「隋書」独孤皇后伝) 参考文献:陳舜臣「中国の歴史(4)」

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