酉にまつわる故事成語(二)

第31回  酉にまつわる故事成語(二)

 今回は酉にまつわる故事成語の第二回目です。早速本題に入りましょう。本日のお題は「鶏肋(けいろく:鶏の肋骨)」です。これはある武将の発言が出典になっています。

伝令:「すぐ集まってくださあい!今から、お殿様から大事なお話があるそうですぞ!集合!しゅうごお〜!」
武将A:「何の話やろか。おまはん、なんか知っとる?」
武将B:「ううん、なんも聞いとらへん。どーでもえーけど、わい、ラーメン食べ取る最中やったやんけ。」
武将C:「わてかてお好み焼き食べてたとこやわ。どうせ、この戦(いくさ)のことやろ、お殿はんの話して。」
武将A:「そやな、戦も大分長引いとるしな。」
武将B:「そやけど、お殿はんの話、時々訳わからへんことあるしなあ。」
武将C:「ほんま、学のあらはる人の言うことは、よう、わからんわ。まあ何にしても、はよ行こ。遅刻したら殺されるで。」
  ・・・
お殿様:「あー、みんなよく聞くように。」
 一同、シーン
お殿様:「鶏肋。」
 一同、目がテン
お殿様:「以上。」
 一同、呆然
  ・・・
武将A:「何やろ?鶏の肋骨て。」
武将B:「さあ・・・、ケンタッキーでも食べたいんやろか。」
武将C:「村のはずれに立ってはったで、烏声寝のご老公。」
武将A:「・・・あれ、あれ見てみ。楊脩の奴、なんや帰り支度しとるで。」



 この学のあるお殿さまこそ、三国志でお馴染みのあの曹操で、舞台は、西暦219年、曹操と劉備が争奪戦を行っていた漢中です。曹操はしばしば、謎掛けのようなことを言っては皆を困らせていましたが、楊脩ただ一人がよく謎を解いていました。このときも、武将たちがフライドチキンを買いにいく中(ウソです)、一人、その謎を解いたのでした。

レポーター:「楊脩さん、どうして帰り支度をしているのですか。」
楊脩:「お殿さまは、漢中は鶏の肋骨のようなものだ、と言われたのさ。」
レポーター:「・・・よくわかりませんが・・・」
楊脩:「鶏の肋骨は、さして食べるところはない。だけど、スープなんかが取れるから、捨てるには勿体無い。漢中は言ってみればそういうところだから、大きな犠牲を払ってまで執着するような土地でもない。お殿さまはそう言われたのさ。だから、帰り支度をしてるんだ。」

 今回も楊脩の謎解きは見事正解で、数ヶ月に及んだ戦いの後、曹操は兵を長安に引き上げました。しかし、この頭の回転の速さが災いして、楊脩はこの後曹操に殺されてしまいます。殺された理由はこの他にも色々あり複雑なのですが、曹丕、曹植の後継者問題や(曹操は、曹丕を太子と定めたの対し、楊脩は曹植の肩を持った)、袁詔(官渡の戦で曹操に敗れた)の遠縁だったことなどが複合的に作用したようです。 楊脩は若いときから非常に優秀で、孝廉(漢武帝の時に制定:法律に通暁した者が選ばれた)に推挙され、主簿(総務部長のような地位)に任命されました。曹操の謎掛けと楊脩の謎解きの話は、世説新語に載っているのでいくつか紹介してみましょう。

1. 曹操は後漢献帝の時、丞相に任ぜられました。その時、丞相府の門が作られたので、曹操は見に行きました。門を見た曹操は額に「活」という字を書かせて立ち去りました。楊脩はそれを見るとすぐに門を壊させました。
「門の中に[活]という字を書くと闊の字になる。門が大きい(闊は大きいという意味)ということこそ王(曹操)の忌まれるところなのだ。」
注:このとき既に曹操は後漢王朝の実権を握っていました。もっぱら簒奪が噂され、その嫌疑を避けるために大きな門を嫌ったわけです。

2. ある人が酒器一杯のヨーグルト(一箱のチーズと訳しているものもあります。その方が良いかも知れません)を曹操に贈りました。曹操は少し飲んで、蓋の上に「合」という字を書きました。他の者は意味がわかりませんでしたが、楊脩はこれを飲んで言うには
「公は人が一口ずつ飲めといっていらっしゃるのだ。何をぐずぐずしているのだ。」
注:「合」という字は人と一と口から成り立っています。

 さて、漢中という地名を少し見ておきましょう。「漢」という文字は元々、「水の流れていない川」をあらわす象形文字で、本来、天の川なのだそうです。それが長江の支流で現在の陝西省南部、秦嶺山脈の南麓を源とする漢江(漢水)を指すようになりました。そして戦国時代に秦がこの地域を支配するようになり、漢江の上流域に漢中郡を置いたのがどうも漢中という地名の始まりのようです。この地名でまず思い出されるのは、何と言っても、劉邦が興した「漢」のという国号の元になったことです。項羽に任じられて漢王に封じられたのですが、もしも、他の地の王に任じられ、その後中国を統一したならば、劉邦が興した王朝の名はきっと「漢」ではなかったことでしょう。この辺りの話はもの凄く面白いのですが、さすがに「鶏肋」からの寄り道としては度が過ぎているので、これ以上の深入りはしないことにします(おお、田秋センセにも理性というものがあるんだ^^)。
 ところで、曹操が「漢中」を「鶏肋」と評したのは冷静な判断だったのでしょうか、それとも、数ヶ月も戦ってまだ勝つことが出来ないことへの負け惜しみだったのでしょうか。前述した通り、漢中は現在の陝西省南部に位置し、秦嶺山脈と大巴山脈とに挟まれた盆地で、関中(現在の西安辺り)と四川とを結ぶ交通の要地です。しかし曹操には、穀物もそうは獲れず中原からも遠い、あまり魅力のない土地に映ったようです。あながち、負け惜しみだけではなかったと思います。理由はかなり異なりますが、劉邦も漢中の王に封じられたことには不満がありました。この二人の英雄には漢中の地は、どうも受けが悪かったようです。現在の漢中は人口3,649,000人(2004年現在)、農業、工業とも盛んだそうです。また、パンダ、トキの自然保護区としても有名で、野生の金絲猴が生息していることでも知られています。
 大事なことを書き忘れていました。出典は一般には「後漢書・楊脩伝」ということになっていますが、正史三国志の中にもかなり細かい記述があり、今回はそちらの方を参考にしました。

 実は、鶏肋にはもう一つ意味があり、寧ろ、そちらの方がすぐに納得できるのではないかと思います。鶏がらの様に痩せている、と言いますが、鶏肋には「痩せて貧弱な人」という意味があります。「晋書・劉伶伝」にこんな話が載っているそうです。
 竹林の七賢人の中でも、特にお酒の好きだった劉伶さんが、あるとき、酔っ払って諍いを起こしてしまいました。相手が袖を捲くり上げ、拳骨を振りかざすと、件の劉伶氏、
 「何分、鶏のあばら骨(鶏肋)みたいに貧弱な体だから、その拳骨は頂きかねます。」
 と言ったところ、相手は思わず噴き出して、殴るのを止めてしまいました。
 この話など、別段ここを出典だとしなくともいいような気がします。それくらい鶏のあばら骨=痩せた人という図式は、感覚的に理解できます。竹林の七賢人とは、阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎の七人で、阮籍は白眼視の故事で有名です。七人ともお酒は大好きでしたが、劉伶は特に好きだった様です。彼らは清談をしたことになっていますが、如何せん酒の上での話ですからね、清談だか猥談だか・・・

 本日はここまで。  

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