第33回  酉にまつわる故事成語(四)

 酉にまつわる故事成語第4回最初のお題は、「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」です。出典は論語第十七陽貨篇です。短いのでその部分の訳を載せておきます。

 先生が武城におもむかれると、絃の伴奏に合わせて詩を歌っている声が聞えてきた。先生はにっこり笑っていわれた。
「鶏を料理するのになぜ大きな牛切り包丁を使うのだろう」
 武城の城主をしていた子游が、かしこまっておこたえした。
「わたしはかつて先生からうけたまわったことがあります。『君子が道を学ぶと、民を愛するようになる。被治者の小人が道を学ぶと使いやすくなる』わたしはこの趣旨にもとづいて、礼楽を教習しているのです」
 先生は弟子たちを振り返っていわれた。
「諸君、子游のいうとおりだ。さっきのは冗談だよ」

注:中央公論社出版の「世界の名著3・孔子 孟子」から引用(丸写し)させていただきました。

 「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」は、当時使われていた諺だそうです。大体、論語を出典とする成語には、「巧言令色」など、孔子が世界で初めて口にした言葉が多くありますが、この言葉は偶々孔子が口にし、それを弟子が偶々書きとめたために後世に伝わったわけですから、チョーラッキーなもの凄い果報者、と言えます。意味は、「不必要に大仰なことをする必要はない」で、大げさなことを戒めるときに使い、「大は小を兼ねる」の対極にあります。
 次に、このエピソードに出てくる言葉を詳しく見ていきましょう。まず、人物から。「先生」とは言わず知れた孔子さまです。このお方の説明をはじめると、それだけで「ちゅうごくちゅうどく」5回分くらいになるので、ここでは思い切って省略します。子游について少し紹介します。まず、「子游」というのは字(あざな)で、姓は言(げん)、名は偃(えん)、いわゆる、「孔門十哲」の一人です。孔子より45歳年下で22〜3歳の頃、弟子入りしたようです。ということは、22歳で弟子入りしたとしても孔子は67歳、孔子は74歳で亡くなりましたから、本当に最晩年の弟子だったということになります。しかも、このエピソードのときには既に孔子の下を離れ、武城の城主をしている訳ですから、孔子と一緒に過ごした時期はごくわずかだということになりますね。それで十哲に数えられるのですから大したものです。
 「武城」という地名が出てきます。下図は春秋時代の中国で、現在、費県という町がある辺りが武城があった場所です。ところでこの武城という町は魯という国において、どのような役割を果たしていたのでしょうか。魯は名門の国ですが、実力は小さく、斉との関係も緊張していました。それに加え南方の呉と越が実力をつけ始め、北への進出を狙っていました。BC488年、魯は呉の同盟国である邾を侵略し、翌BC487年、呉は報復として魯に攻め込みました。結果、魯は破れ和約を結びました。BC486年、今度は無理やり呉と連合軍を組まされ斉に侵入します。BC484年、斉の復讐を受けますが、かろうじて撃退、次いで、呉と連合を組み、斉に大勝します。この辺りは完全に呉が主導権を握っている感じです。そしてBC482年、黄池で会盟を開こうとした呉の背後を越が攻めるという事件が起こります。このように、当時魯は東の斉、南の呉に非常に神経を使わされています。そして武城は魯の南の守りとして重要な役目を負った町だったのです。
 一つ、留意すべき点があります。それは武城という町が現在、他の地域にあるということです(地図で「(今の)武城」が現在の「武城」)。この町は黄河の北側にあり、ここが今回のエピソードの武城だと思い込んでしまうと、今述べた時代背景がちんぷんかんぷんになってしまいます。一つお断りしておきますが、「現在の武城」の位置は「大体ここ」くらいで記入しています。当時と今では黄河の流れも下流で変わっており、正確に測定して丸印を書いてあるわけでもありません。単純にインターネットで「武城」を検索すると、ここの他、福島県いわき市小名浜下神白字武城や、風雲武城(タケシ城)というのもヒットします。
 武城の話が長くなりました。その他、特徴的な話として「絃の伴奏で詩を歌う」があります。どんな絃楽器を使っていたんでしょうね。孔子自身は琴を弾いていました。うまかったかどうかはわかりませんが、耳は肥えていたようです。この琴ですが、今日本にある琴とは違ってコマ(琴柱)を立てません。絃の本数も違います。この辺りのことについて大変素晴らしいサイトがあるので紹介しておきます。瑟という楽器もあります。大型の琴です。あと、このサイトも参考になります。胡弓はまだこの時代なかったようです。琵琶は秦の時代にあったことは確認されていますが、孔子様の頃にはまだなかったかも・・・。このように考えてくると、絃の伴奏とは琴と瑟ではなかったかと思うのですが、どうでしょうか。
 最後に、このエピソードの価値というか、論語に収録されている理由について。「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」という諺があまりに素晴らしいので論語に収録した訳では勿論ありません。ちょっと子游のことをからかってみたら、まともに反撃を喰らい、たじたじとなっている孔子の姿を載せることが主眼だったわけで、こういうところが、キリストさまやお釈迦さまの記録を大きく異なるところです。超人的でありながらこういう人間臭いちょっとした失敗談も隠さずに書くところが論語の素晴らしい所の一つです。孔子さまも天国で苦笑いしながらも、「うんうん、これで良い、これで良い」と言っているような気がします。


 次のお題は、「牝鶏の晨」です。「ひんけいのしん」と読み、メスの鶏が朝、コケコッコーと鳴くという意味です。「晨」と言う字はあまりお目にかかりませんが、「朝」という意味で、「晨する」なると「アシタする」と読み、「鶏が朝を告げるために鳴く」という意味になります。通常、かなり男尊女卑の思想を伴って、「女は表舞台に出てくるなあ!」という意味で使われます(私が言っているのではありませんから!)。


 出典は「書経」の「牧誓第三十」です。そこに周の武王の言葉として、「古の人がいっている。『牝鶏は鳴いて旦(あさ)明けを告げはしない。牝鶏が旦明けを告げようものなら、その家の財産はなくなる』」と書かれています。これも、本日最初のお題と同様、武王の造語ではなく、当時、使われていた諺か、或いは、高い位にある人が教養として身に着けるべき知識だったのでしょう。
 この「牧誓」というのは、周の武王が、周辺の部族を引きつれ、商(地図では殷)を討伐したとき、牧野(地図参照)というところで誓った言葉という意味です。この殷と商の関係もややこしいです。周が前の王朝のことを殷と呼び、周の前の王朝は自らのことを商と呼んでいた、というのが一般的な説で、中国ではこの王朝のことを「商」と呼んでいます。ところが、「商」というのはこの王朝後期の首邑の名前(複数あったそうです)であって、王朝全体を「商」と呼んだことを示す甲骨文・金文は現在のところ、まだ発見されていないそうです。ですから、この王朝が自らの領土全体を指して建国以来ずっと「商」と呼んでいたのかどうかは、考古学的にはまだ疑問があるという訳です。
というようなことが、Wikipediaに載っています。
 さて、書経・牧誓篇の前に泰誓篇3篇(上・中・下)が置かれています。これは「大いに誓う」という意味の篇で、ここでは紂王がいかに悪逆非道であるかを色々実例を挙げて説き、「我々を愛養するなら主君であるが、我々を虐げるなら仇だ」とい言い、この討伐の正当性をしつこく説いています。理由はどうであれ、主君に歯向かう訳ですから、その辺の正当性の立証には相当神経を使っている感じがします。
 討伐の正当性を説く中、実際の行軍の様子も簡単ですが記されています。周と周につく反乱軍は黄河の南に住んでおり、商の都は黄河の北にあるのでどこかで黄河を渡らなければなりません。それが孟津というところなのです(地図参照)。泰誓篇で述べられている誓いはここ孟津でされたようです。それから6日後に牧野に陣を張り、その翌日、2月4日にこの牧誓が行われたことになっています。この日付にも色々考慮すべき問題はあるのですが、とにかく紀元前1000年くらいのこと(今から3000年くらい前)の日付を論議できるというのはすごいことです。
 周側についた反乱軍のこともわかっています。牧誓の中で武王はこう呼びかけています。
「庸・蜀・羌・髳(ぼう)・微・盧(纑)・彭・濮の人々よ」
庸・盧・濮は湖北省辺り、蜀・髳・微・彭は四川省辺りの部族、羌はいわゆる羌族で呂尚(太公望)の出身部族とされています。この中で、羌族が最も周の姫姓と近い関係にあり、羌姓と姫姓は代々通婚する関係だったようです。そういえば、史記・周本紀によれば、周の祖、后稷の母の名は羌原とあります。
 この呼びかけの後、「古の人がいっている、『牝鶏は鳴いて旦(あさ)明けを告げはしない。牝鶏が旦明けを告げようものなら、その家の財産はなくなる』」が続くわけです。ちゅうごくちゅうどくをお読みになる賢い方々にはもうおわかりですね。これは妲己のことを言っているのです。紂王と妲己のことは色んなところに書かれていますが、列女伝の第七孼嬖伝に詳しく書かれているのでここを参考にしてみます。「孼嬖」、これが読めた方は相当な漢字通の方だと思います。「ゲツペイ」又は「ゲツヘイ」と読み、まあ、悪女というくらいの意味です。それによると妲己は紂王が有蘇氏を伐ったときに献上された女で、紂王は妲己を溺愛し、彼女の言うことはなんでも聞き入れました。妲己が褒める者は引き立ててやり、妲己が憎む者は処刑するといった具合です。また、酒池肉林とはこのときのことですし、長夜の宴(窓を締め切りあたかも夜であるかのようにし、ずっと宴会をすること)を張ったりしました。
 叛く者が現れると
「罪が軽く刑が生易しければ、威信が保てませんわ」
と進言し、炮格(烙)の刑というものを作り出しました。炮格の刑は今まで読んだ本では二つの解釈があり、一つは、熱くした銅の柱に抱きつかせる刑であるという説と、もう一つは、火の上に架けた、油を塗った銅の柱の上を渡らせる刑(滑って火の中に罪人が落ちる)であるという説です。炮格は日本で昔、魚や肉を焼くときに使っていた網みたいなものを指します。炮烙だと、焼鍼(やきばり)が原意。どうも、「抱きつかせる」という解釈は分が悪いようです。
「聖人の心臓には七つの竅(あな)があり、竅には九本の毛があるそうですわね」
と紂王をそそのかし、王子比干の心臓を解剖させたのも妲己ということになっています。
 こういうことを踏まえての武王の言葉なのです。なお、妲己は妲が字、己が姓だそうです。

 さて、この戦いの結果はどうであったか?周の圧勝に終わりました。商の兵隊の多くは奴隷だったので、商に対する忠誠心などなく、逆に周が勝てば開放されるかもしれないというので、周軍と一緒になって商へ攻め込みました。負けを悟った紂王は鹿代に登り、珠玉を身に付け火の中に身を投じました。史記周本紀では妲己は自殺したことになっており、殷本紀では武王によって殺されたことになっています。  

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