牛にまつわる故事成語(二)

第21回  牛にまつわる故事成語(二)


 牛にまつわる故事成語の2回目、本日のお題は「鶏口牛後」です。この話は、史記の「蘇秦列伝」、戦国策の「韓策(一)」、十八史略の巻一「春秋戦国」に載っていて、蘇秦(後述)が韓の王様に合従(後述)を説いたときに引用した当時の諺です。ですから、蘇秦が最初に用いたわけではなく、また、この言葉が出来たいきさつを記しているわけでもありません。そういう意味では、上に挙げた書物はいわゆる「出典」とは少し違い、この言葉が最初に見える文献ということになります。ちなみにこの3冊の中では、史記が前漢中期と最も古く、ついで、戦国策が前漢末に著され、十八史略は宋末元初の曾先之という人によって編集されました。最後の十八史略はそれまでの史書のダイジェストであり、史記の蘇秦列伝の該当部分を抜粋したために、十八史略にこの記述があるのであり、年代的に言っても史記に遅れること約1300年ですから、これを鶏口牛後が最初に記された本に数えるのも変な話なのですが、何故か日本では、鶏口牛後の出典としての一角を占めています。日本では十八史略が昔からよく読まれたのがその理由かも知れません。
 先ほど、史記が「最も古く」と書きましたが、これには注意が必要です。司馬遷は武帝の時の人で、生没年代は正確にはわかっていません。生年についてはBC145、BC135の二説があり、没年に至っては漢書の「司馬遷伝」の中でもはっきりと記されていません。漢書の作者である班固から見れば司馬遷は尊敬すべき偉人、自分の仕事の大先輩だったわけですから、わかっていれば必ず書く筈で、班固も相当調べたはずです。それにも拘らず、記せなかったということは、班固の時代には既にわからなくなっていたということです。一方、戦国策の編者の劉向については、生年がBC77、没年がBC6ということがわかっています。司馬遷の生年の方が6、70年先なわけですから、史記の記述が一番古いように思えます。ところが、調べてみると司馬遷は、戦国策を引用したのは間違いないようなのです。
 「顔氏家訓」という書物の「書証第十七」に、
「太史公(司馬遷)の史記に『寧ろ鶏口たらんも、牛後たるなかれ』とあるが、ここの部分は戦国策の文を省略して引用したものに他ならない。」
とあります。
 また、現代教養文庫「中国の故事・ことわざ」「鶏口と為るとも、牛後となるなかれ」の項にも、
「この話、『十八史略』で知られているが、『史記』(蘇秦伝)もあり、ここはこれよりも古いと見られる『戦国策』(韓策)の記述にしたがった。」
となっています。
 司馬遷は、何故、彼の時代よりも後に書かれたものを引用できたのでしょう。  答えはこうです。劉向は戦国策の作者ではなく編者だったのです。当時、宮中にあった、「国策」、「国事」、「短長」、「事語」、「長書」、「修書」という、作者不明の史書というかエピソード集というか、まあ、そういうものを劉向が中心となって編纂しなおしたものが戦国策で、司馬遷は編集される前の「戦国策」を参考にしたのでした。 ですから資料としては戦国策が最も古いということになります。但し、現在伝わっている戦国策は劉向が編纂したそのままの形ではありません。後世の人による加筆、或いは戦禍による消失などがあり、現在私たちが見ている戦国策は、北宋の人、曽鞏(そうきょう)が編纂しなおしたものです。
 それでは、次に、このことわざを口にした蘇秦について調べてみましょう。蘇秦は洛陽出身のBC4世紀後半に遊説家として活躍した人です。同時代に活躍したもう一人の遊説家、張儀とは同門で鬼谷先生の下で机を並べて一緒に勉強していました。ちなみに鬼谷先生の本名は王詡(おうく)で鬼谷は河南にあった地名です。銭形平次で
「おう、三ノ輪の(親分)。」
などと呼びますが、あれと同じ用法です。

鬼谷先生:この前は、縦横の術を勉強した。今日はその復習から始めるぞ。まず、縦横とは何だったかな。
田秋:はい、はい、はい!
鬼谷先生:おお、田秋か。オマエはちとトロいが、一所懸命のところがいいぞ。
田秋:ええと、ええと、たてとよこだから・・・
鬼谷先生:うむ、縦と横だから・・・
田秋:たてたてよこよこまるかいてちょん。
鬼谷先生:がっちょお〜ん。
張儀:はい、先生!
鬼谷先生:おお、張儀か。言うてみい。
張儀:縦横の術とは、合従或いは連衡という外交政策のことです。合従とは秦以外の国々が協力して秦に立ち向かうこと、連衡とは、秦と秦以外の国とが手を結ぶことです。
鬼谷先生:うむ。それでは、秦以外の国とはどこのことなのか、答えられるものはおるか。
田秋:はい、はい、はい。
鬼谷先生:また田秋か、そちなら、全部言えなくてもよいぞ。知っているだけ言ってごらん。
田秋:ええとええと、こんごとお、かんぼじあとお・・・
鬼谷先生:もうよい、もうよい。蘇秦はどうじゃ。
蘇秦:はい。燕、韓、魏、趙、斉、楚の六国です。
鬼谷先生:そうじゃ。それでは秦と結ぶことを何故、連衡というのじゃ。張儀、どうじゃな。
張儀:はい、秦は西にあり、その他の六国は東にあります。ですから、東西で手を結ぶことになりますから、衡、即ち「横」の関係となります。
鬼谷先生:それでは、六国が手を結ぶことを何故、合従というのじゃな。
蘇秦:はい、六国全部が南北に並んでいるわけではありません。が、概ね、お互い、南北に位置しています。それ故、従、即ち縦に合わさると言うのでございます。
鬼谷先生:そのとおりじゃ。蘇秦も張儀もよく学んでおるな。
田秋:せんせえ
鬼谷先生:なんじゃな、田秋。
田秋:おら、はらへったあ。
鬼谷先生:わかったわかった。お前は、みんなの邪魔にならんよう、台所へ行って、飯を食べていなさい。・・・こら、田秋、人前で屁などするでない!

 蘇秦は鬼谷先生の下で学んだ後、色々、遊説に出掛けますが、最初は全然相手にされませんでした。秦にも出掛け、恵王に自説を述べましたが、このときは連衡を説いています。しかしこの頃秦は、商鞅処刑の余韻冷めやらぬ時で、弁舌の士を全然信用しない時期だったので(史記の記述による、戦国策にはこの記述はない)、蘇秦は用いられることはありませんでした。一般に「蘇秦=合従策、張儀=連衡策」と言われていますが、もしここで蘇秦が秦で用いられていれば、「蘇秦=連衡策」という図式になっていたでしょう。
 この辺りの蘇秦の足取りの記述については史記と戦国策では少々異なります。
 史記では、
鬼谷先生の下で学ぶ⇒諸国を遊説するが相手にされず、兄弟や妻にまでバカにされる⇒「周書陰符」なるものを読む⇒秦に行くが用いられず⇒趙へ行くが用いられず⇒燕へ行って登用される
となっています。一方戦国策では、秦で用いられなかった後、「陰符」を読み、その後趙へ行き、用いられたことになっています。
 まあ、最初が燕にしろ趙にしろ、一旦、合従策が用いられると後はとんとん拍子で各国、合従策を用いることになります。
 蘇秦が韓の王様に合従策を説いたときのことです。
「王様が秦にお仕えなされば、秦が宜陽(ぎよう)、成皋(せいこう)をもとめるは必定。今年これをお贈りになれば、来年はいっそう地を割くようもとめましょう。おやりになれば、たちまち、分ける地がなくなりましょうし、そもそも、王さまの地には限りがあり、秦のもとめには止むことがないのでございます。いったい、限りある地をもって、止むことのないもとめをお迎えあそばす。これこそ、いわゆる、怨みを売って禍いを買う、ということ、戦わぬうちから地が削られてしまうことになりましょう。臣は、巷間の諺に『寧ろ鶏口となるも、牛後となるなかれ』というのを聞いております。いま、王さまが、西へ向き、拱手して秦に臣事あそばす、ということは、それこそ牛後におなりになるに異なりません。」(平凡社:東洋文庫;戦国策3より)
 このように説得しました。
 ここが「寧ろ鶏口となるも、牛後となるなかれ」の初出の箇所です。
 前出の顔氏家訓の「鶏口・牛後について」の項には、
「本来、口は尸(親分のこと)、後は従(子のこと)と書くべきで、牛の子となるよりは鶏のボスとなるべきと解釈すべきだ」
とあります。この顔氏家訓(南北朝)という書物もなかなか面白く、いつか取り上げてみたいと思っています。今日は、この成語が昔から有名であった一つの証しとして書き出してみました。
 それにしても、もし、蘇秦が最初、秦に用いられれば、この諺を用いることはなく、従って、文字として残らなかったかも知れないと思うと、歴史とはなんと面白のだろうと思います。尤も、蘇秦が秦に用いられれば、今度は張儀が逆に、合従策を携え各国を遊説し、そのとき、この諺を用いて、それが史書に残ったのかもしれませんが・・・

 

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