戌にまつわる故事成語(二)

第38回  戌にまつわる故事成語(二)

 最近、みんなの掲示板に「閑話休題」という言葉が現れました。これは本来、「さて、話を元に戻して」という意味です。出典は《水滸伝》らしいですが、自分の目で確かめた訳ではありません。
 気になるのは、けっこうたくさんの人がこの字面から、「ここでちょっと一休みして、余談を一つ・・・」という意味だと思ってしまっていることです。話題を変えるという機能は同じなのですが、方向が完全に逆になっています。
 辞書で調べてみると、大辞泉では、
「文章で、余談をやめて、話を本題に戻すときに、接続詞的に用いる語。それはさておき。あだしごとはさておき。」
 大辞林では、
「話を本筋に戻すとき、または本題に入るときに用いる言葉。接続詞的に用いる。むだな話はさておいて。それはさておき。さて。」
(以上、どちらもインターネット上での辞書)
 新言海では、
「それはさておき。話を本題にもどして。無駄話は一応打ち切って。さて。」
 三省堂新漢和中辞典では、
「それはさておき。話の内容を本筋に戻すときの言い出しに用いる語、さて。」
 というように出ています。
 ところがです!私の先輩が愛用している電子辞書に「ちょっと一休み(正確な表現は忘れました)」という意味もある、と出ていたのです。びっくりしました。
 確かに言葉は時代とともに変化していきます(例えば、昔「一生懸命」は×、今は○)。ただ、ここ「ちゅうごくちゅうどく」は出典を調べるということをコンセプトにしているので、元々の意味の方を大事にしたいと思います。私は、話が本題からはずれまくるので、特に重宝しています。

  閑話休題
 今日は、「戌にまつわる故事成語」の第2回目です。1回目で触れ忘れたのですが、「戌」について少し調べておきます。十二支を表す漢字が、そこに配された動物とは、「巳」を除いては、無関係であるということは既にご承知だと思いますが、この「戌」もその例に漏れません。
 この字は、「卜(まさかり)」と「戈(ほこ)」とを合わせて作られたもので、「武器で勢いを示す、威勢を見せる」という意味です。そこで、家の前にいて吠えて脅かす「犬」に、この字を当てることにしたのだそうです。
 ちなみにこの字の部首は「戈」で「ほこづくり」とか「ほこがまえ」とか呼ばれています。同じ部首を持つ字に「成」とか「我」とかあります。ところがやっかいなことに、部首というのものは時代によって変わります。私の持っている漢和辞典では、「成」の部首は「戊」、「我」の部首は「ノ」となっています。ほんま文部省はややこしいことしますな。書き順も時代によって違うし・・・。よかれと思ってやってるのかもしれませんが、混乱を来たしているだけのようにも思います。
 さて本日のお題に進みましょう。今日のお題は「狡兎死して走狗烹らる」です。この「走狗」は「良狗」とも書きます。この成語については第6回で軽く触れましたが、今回はもう少し詳しく調べてみようと思います。この言葉は「すばしこいウサギが死ぬと優秀な猟犬でも、煮て食べられてしまう」という所から「戦っているときは功臣でも、敵国が滅んで太平な世の中になると用済みになって排除されてしまう」という意味になります。
 この言いまわし、余程有名だったようで、色々な書物に引用されています。主だったところで、史記、韓非子、三略、十八史略、淮南子、論衡、抱朴子などです。このことは、どの書物で初めて使われたという意味での出典というものはなく、古くから伝わる諺であったことを強く暗示しています。ただ、最も古く文字として書き記された書物は?ということになると、韓非子が一番古そうなのですが、現在伝わる韓非子は、韓非子本人の記述に、後世の韓非子学派の記述が書き加えられており、全容が出来上がったのは前漢初期にまで下るそうで、「狡兎死して走狗烹らる」が載っている「内儲説下六微篇」という篇は、韓非子本人の手によるものではなく、後世に加筆された、韓非子本人が生きた時代よりは後に出来上がった部分ということになります。三略という書物は秦末漢初に黄石公が張良に授けたもので、それを書いたのは太公望呂尚だという説が古くからありますが、現在では前漢末に書かれたものだというのが定説となっています。そうすると淮南子は前漢末の劉向、論衡は後漢の王充、抱朴子は東晋の葛洪(葛は似せ字)の作ですから一番古いのは史記か韓非子ということになります。韓非子に比べると、史記は100%司馬遷の手によることがわかっています。まずは、史記から見ていきましょう。
 この成語は、史記の《淮陰候列伝第三十二》と《越王勾践世家》とに出てきますが(勾践は句践とも書かれる)、まずは《淮陰候列伝第三十二》から。淮陰候というのは背水の陣で有名な韓信のことです。韓信は初め項羽につきましたが、これといって手柄をたてることもなく、そのうち逃亡して劉邦側に帰属しました。そして蕭何に認められるや、めきめきその頭角を現しました。その軍事的才能を遺憾なくふるい、魏や趙を打ち破りましたが、背水の陣を敷いたのは、この趙との戦いのときです。そして斉を平定した後、斉王に封じらるのですが、その頃、実は既に、劉邦(漢)と項羽(楚)と並ぶ実力を持つようになっていました。それを見抜いたのが斉の人、蒯通(かいとう、かいつう)です。
「現在二人の君主(項羽と劉邦)の運命は、大王(韓信)さまの手に握られております。大王さまが味方した方が勝つでしょう。しかしここは、鼎立を目指すのが得策かと思います。」
「漢王はわしを非常に優遇してくださる。道義にそむいてよいものだろうか。」
「大王さまが、漢王とずっと親しくできるはずだとお思いなのは、間違いだと思います。平民時代、あれほど仲の良かった、張耳と陳余の末期はどうだったでしょうか。大王さまが、張耳と陳余の間柄以上に親しい絆で漢王と結ばれることはないでしょう。
 大夫種(しょう)は、范蠡と共に一度滅亡した越を存続させ、勾践を覇者にしましたが、その後死を賜りました。野の獣がとりつくされると、猟犬は煮殺されるものです。」

 まず、ここで出てきますが。「狡兎」の代わりに「野獣」となっており、また、「走狗」は「猟狗」となっています。

 韓信は結局、劉邦を裏切ることが出来ませんでした。項羽が敗れたあと、韓信は楚王に国替えとなりました。そこに鐘離眛(しょうりまつ)という、韓信とは親しい間柄の、元、項羽軍の将軍がいました。項羽の死後逃亡して、韓信の家に匿われていました。劉邦はこの鐘離眛を憎んでいて、韓信に逮捕するよう勅命を下しました(が、その命令に従わなかった)。
そのうち、韓信が謀反したと密告するものがいて、高祖は行幸の名の下に兵を集め楚に向かいました。韓信は(謀反など考えていませんでしたが)、謀反を起こさざるを得ないような状況に追い込まれてしまいました。そこである者が
「鐘離眛の首を差し上げたらお上はきっとお喜びになるでしょう。」
進言したしたので、韓信は鐘離眛に相談しました。鐘離眛は
「あなたを見損なった。わたしは今日にも死にましょうが、あなたもすぐに滅ぼされますぞ。」
と言って、自らの首をはねたのです。
 韓信はその首をもって高祖に拝謁しましたが、結局、逮捕されました。そのときの韓信の言葉、
「やはり人の言ったとおりだった。『すばしこい兎が殺されたあと、良い猟犬は煮殺される。空を飛ぶ鳥がとりつくされると、りっぱな弓はしまわれる。敵国が破滅したあと、謀臣は殺される』。天下が既に平定された今、わしが煮殺されるのも当然だ。」
ここでは「狡兎」が使われていますが、「走狗」は「良狗」となっています。
 韓信はこのときは殺されずに淮陰候に格下げされただけで済みましたが、結局後年、劉邦の妻、呂后に殺されてしまい、そのときになって蒯通の言葉に従わなかったことを悔やんだのでした。

 随分長い引用になりましたが、これが「淮陰候列伝」に書かれている「狡兎死して走狗烹らる」関係部分です。最後の韓信の言葉、「狡兎死して良走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(おさ)められ、敵国破れて謀臣亡ぶ」を丸ごと覚えておき、どこかで出来るだけ自然に口走ると、「あ、この人は教養がある」と見直されますから、よく覚えておきましょう。最後の「謀臣」とは「計略に巧みな家来」という意味ですが、ここでは、あまりネガティブな響きはないようです。

 なんか、とても1回では「狡兎死して走狗烹らる」の項が終わらないような雰囲気が濃厚となってきました。これは本当に故事成語のページなのだろうか、ひょっとして、歴史探訪ではなかろうかと疑問を抱きつつ、史記の中でもう一箇所「狡兎死して走狗烹らる」が出てくる『越王勾践世家第十』を調べてみましょう。
 呉王夫差と越王勾践の話は、「臥薪嘗胆」とともに非常に有名です。この二つの国は、隣同士の国でよくありがちな、いわゆる「犬猿の仲」の国同士でした。この「犬猿の仲」もここで取り上げたいと思っているのですが、どうも、メドインジャパンの言葉らしいです。昔から戦争をしていましたが、ある時勾践は、呉の軍の前で、自分たちの兵隊に自らの首をかききって自殺させるという、とんでもない計略を用いました。そして、案の定あっけにとられている呉軍の隙を衝いて攻め込み、自軍は大勝、呉王(夫差の父)にも矢傷を負わせるという大戦果を得ました。結局この傷が元で呉王は亡くなりますが、いまわのきわに、息子夫差に向かって「決してこの仇のことを忘れるな」と遺言します。
 夫差は遺言を守り、日夜訓練に励みます。それを聞いた勾践、先手必勝とばかりに攻め込もうとしました。それを越の范蠡(はんれい)が諌めるのですが勾践は聞き入れず、そのまま出兵し、結局、戦に負け会稽山に立て籠もる羽目となってしまいます。このとき范蠡がどのような地位にいたのかはよくわかりません。史記にはただ、范蠡が諌めたとあるだけです。
 そこでなんやかやあって(伍子胥なんかが出てきて、この部分も非常に面白いです)、勾践は許されて国へ帰ります。そして范蠡の助言に従い、大夫種に国政を任せました。そうこうする間に呉の太宰嚭(ひ)の讒言により伍子胥が自殺に追い込まれ、夫差は次第に慢心し、BC482には、黄池に諸侯を呼び会盟を開くに至りました。勾践はその背後を突く形で呉に攻め込み、夫差は莫大な贈り物とともに越に和議を申し入れたのでした。その後、呉は斉や晋と戦い、民は疲れ果て、その状態を見た勾践は、再び攻め込みました。ついに呉は敗れ、夫差は姑蘇の山に立て籠もります。そして使者を立て、和睦を願い出るのですが、許そうとする勾践に対して、范蠡が承知せず、結局使者は追い返されてしまいました。その後も勾践は夫差を憐れに思い、命だけは助けようとするのですが、悲観に暮れた夫差はその申し出を断り、終には自殺してしまいます。
 呉を平定した越は、一時かなりの大国になるのですが、それと同時に范蠡は越を去ってしまいます。そして斉の国から大夫種に書簡を送り、このように述べます。
「『飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して、走狗烹らる』ということばがある。越王は生まれつき頚(くび)が長く、喙(くちばし)は烏のようだ。あれとは苦難をともにすることができても、安楽をともにすることはできぬ。どうして君はそこを去らぬのか。」
 この書簡を受取ったあと、種は朝廷に出仕しなくなりました。しかし、勾践は人の讒言に耳を貸し、結局は、ひと振りの剣を種に賜ったのでした(自殺せよ、ということ)。
 ここに出てくる形が、今回のお題そのままの形です。ということで、残りは次回にて。
 

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