今回の「戌にまつわる故事成語」は「狡兎死して走狗烹らる」の2回目です。前回では史記に現れる「狡兎死して走狗烹らる」を調べ、「走狗」は「良狗」だったり、「狡兎」が「野獣」だったりすることがわかりました。また、この句が「高鳥尽きて良弓蔵(おさ)められる」と対になり、最後にこの成語の主眼である「敵国破れて謀臣亡ぶ」がくるということもわかりました。 さて、韓非子の「内儲説下六微篇」にも呉越の戦いの話として、この句が登場します。まずこの篇の読み方ですが、「ないちょぜい〜」と読みます。ちょっと読みにくいですね。これも覚えておくと、何時か役に立つかも知れません(まあ、そんなことはないと思いますが)。区切り方は「内儲説・下・六微篇」で、この篇の直前が「内儲説・上〜」、この篇の後には「外儲説〜」という篇が続きます。「儲」は蓄えるという意味で、様々な説話をストックしておき、君主を戒める時に適宜、ここから取り出して引用したようです。 それでは本題です。短いですから、この箇所の全容を掲げておきます。 越王勾践は呉王夫差を攻めた。呉王は謝罪して降伏を申し入れた。越王は許そうとした。范蠡(はんれい)と大夫種(たいふ・しょう)がいった。 「いけません。昔、天は越を呉に与えましたのに、呉は受けませんでした。今、天は夫差にその報いをしているのですが、それはやはり天の下した災いというものです。天が呉を越に与えてくれましたからには、再拝してこれを受けるがよろしい。許してはなりません」。呉の太宰嚭(たいさい・ひ)は大夫種に手紙を送っていった、「すばしこい兎が取り尽くされれば、よい猟犬も煮て食われ、敵国が滅んでしまうと謀臣も捨てられる、といいます。あなたは、どうして呉を許して越の憂いを残しておかないのですか」。大夫種は手紙を受取って読み、ほっと溜息をついていった、「太宰嚭を殺せ。越と呉はどちらかが滅びなければならない天命のもとにあるのだ」 (《中公文庫「韓非子・下巻」:町田三郎訳注》に拠りました。) 太宰嚭の主張は一理あります。憂いがなくなるから捨てられるのです、ずっと憂いの種を残しておけば、捨てられることはありません。どうしてそうなさらないのですか?という論法です。論理としてはそうなるのでしょうが、ただ、少し身勝手で虫のいいような気もします。。。結果論ですが、大夫種と太宰嚭、どちらも死ぬ(殺される)運命にありました。私には、韓非子(学派)がこの説話に託した主張というものがよくわかりません・・・皆さん、わかります?。 次は《三略》です。《三略》の中の《中略》に、「狡兎死して走狗烹らる」の対句である、「高鳥死して良弓蔵(おさ)められる」が載っています。凡その内容は次の通りです。 空飛ぶ鳥が射落とされてしまうと良い弓もしまわれてしまうように、敵国が滅びると謀臣も用済みとなる。用済みとは必ずしも誅殺されることではなく、軍権を奪われ、威光が失せることをいう。
これが大意です。今までの「用済みは誅殺」から、「用済みは引退」、と考え方がだいぶ柔らかくなっています。将軍たちも馬鹿ではありません。戦が終わったら殺されるとわかっていたら、その前に手を打つに決まっています。ということも、君主もわかるはずで、となると「殺すのはマズイ。」となるのは自然な思考の流れというものです。 次は《十八史略》です。この書物はそれまでの18の正史を宋末元初の曾先之という人がまとめたもので、非常に要領よくまとめられています。韓信の記述の部分にこの句が出てきますが、それは「史記」の記述を元にして書いているわけですから、当然、前回取り上げた「淮陰候列伝」と同じ内容になってきます。ですから、ここでもう一度詳しく書くことはしません。が、一つ、異なっていることがあります。「史記・淮陰候列伝」で「良狗」となっていたのが、「走狗」になっています。何故、そうなっているのか、正確なところはわかりませんが、こういう学者は妄りに文字を書き換えることはしないものですから、何らかの理由があったのだと思います。ひょっとしたら、彼が生きた宋末元初の頃には「走狗」が一般化していたのでそう直したのかもしれませんが、案外、頭の中では「良狗」を書くつもりで、手は「走狗」と書いてしまったのかもしれません。 淮南子の「説林訓」にも出てきます。「淮南子」における「説林訓」というのは、韓非子の「内儲説下六微篇」に相当する様な部分で、いえ、それよりももっと警句集的な、短い「則」のようなもので、、そこには約250の短文が集められています。その中の一つに「狡兎が捕らえられて、猟犬は烹られ、高鳥が射つくされて、強弩はお払い物にされる。」(平凡社:中国古典文学大系6:淮南子)というのがあります。淮南子というのは劉邦の孫の劉安のことで武帝と大体同じ頃の人、淮南国(わいなんこく)の国王だった人です。ここではキーワードが狡兎、猟犬、高鳥、強弩になっています。 次に王充の「論衡」を見てみます。王充は後漢に生きた物凄い博覧強記の人で、一切の非合理的なものを片っ端から批判しました。そういう態度を今から2000年も前にとったということは驚嘆に値します。例えば、今、「幽霊なんかいない」というのと、王充の時代にそう言うのとでは、全然違うと思うのです。この中に「定賢」という篇があります。論衡中最長の篇で、賢人、聖人について語っています。 いつわりやすぐれたたくらみを持ち、兵士をひきい、民衆の指揮ができるのを賢者とするなら、これは韓信のたぐいだ、と切り出します。要するに韓信なぞ賢者とは言えぬ、と言っている訳です。国家争乱の時代には名将だと褒めそやされるが、太平の時世には才能の使い道がない、そればかりではなく、災禍に巻き込まれるだろう。空高く飛ぶ鳥がいなくなると良弓はしまい込まれ、足の速い兎がつかまってしまうと良犬は煮て食われる。いつわりたばかる家臣はそれと同じだ。君主が謀臣を見限り、戦功を無視するのではない。彼らが平素主君のために使っていたものが、役立たなくなったからだ。もし韓信が臨機応変の才能を使って叔孫通のようなことをしたならば、どうして謀叛の罪で殺されるような禍いに会おうか。
王充は、煮殺されぬように、その時代その時代にあった生き方をせねばならない、と言っている訳です。 次は「抱朴子」です。今回登場する書物ではこれが一番新しく、東晋時代の葛洪の書です。よく昔の中国人は、外では儒教、内では道教と言われます。自分の働く役所などでは礼や孝を唱え、家に帰ると、「仙人になりたいにゃあ〜」という生活信条です。この葛洪こそ、それを堂々とやってのけた人物です。「抱朴子」という書物には内篇と外篇があります。外篇では儒家の立場で政治倫理、修身の道などを説き、内篇では神仙道を説いています。「抱朴子」の真髄は内篇の「仙人はいるに決まってるだがね。仙人になる方法もわかってるだが、お金がないんだわ。仙薬を作るにはおゼコが要るでかんわ」ですが、自ら従軍を志願した愛国者であり、役所勤めも長くしていた人ですから、外篇が心にもないことを書いた嘘偽りの書ということはあり得ません。誰かに強要されて書いたわけでもありません、何しろ量からすると内篇の2倍くらいあるのですから、相当、リキを入れて書いたのだと思います。 その外篇の巻四十九の「知止」という篇に「すばしこい兎がつかまってしまえば、猟犬は使われなくなるに決まっている」が引用されています。篇名の「知止」は、「自ら止まることを知れ」という意味で、この章は次のような言葉で始まります。 抱朴子が言う。 禍は足ることを知らないより大きいものはない。幸いは止まることを知るより結構なものはない。溢れるほどのものを持ちながら空虚なようにして暮らすのが万全の策である。うかうかと気を赦して栄耀栄華を極めるのは助かりようもない危険な道である。(東洋文庫:抱朴子外篇2) 抱朴子は、わずかな前兆から大きな禍を読み取り、事前に備えることができる例を挙げ、しかしそれができるのは聖人のみで、凡人には到底、無理なことだと言います。そして、思い知るのは、巧成った者は身を退くのがよいということ、功労の大きなものは決して賞せられないということだと続けます。この「巧成った者は身を退くのがよい」というのは老子第九章に出てきます。 「いつまでも器をいっぱいにして満たしつづけようとするのは、やめたほうがよい。鍛えに鍛えてぎりぎりまで刃さきを鋭くしたものは、そのままで長く保てるわけはない。黄金や宝玉が家じゅういっぱいあるというのは、とても守りきれるものではない。財産と地位ができて頭が高くなると、自分で破滅することになる。 仕事をやりとげたら、さっさと身をひいて引退する、それが天の道−自然のはこびかた−というものだ。」(講談社学術文庫:老子:金谷治より引用) 次にその例として、「すばしこい兎がつかまってしまえば、猟犬は使われなくなるに決まっている」とともに韓信の末期を挙げています。さらにそのあと范蠡と大夫種の例も引き合いに出し、そして范蠡のように姿を消したならば、昇りすぎて「亢竜、悔いあり」ということにもならないのだと言います。 以上長々と、有名どころから「狡兎死して走狗烹らる」を引いてある部分を詳しく見てきました。キーワードとなる単語がそれぞれ微妙に異なっているということがよくわかり、これはやはりはっきりとした典拠がない証拠になると思います。また最初は第三者としての観察的な立場から「殺されるのだ」と捉えていたものが、次第に自分もそのような立場になったらどう振舞うべきかという、一人称の立場から考えるようになってきています。 今回はかなり難解で面白くもない内容になってしまいました。こんな文章、誰が読むのか知りませんが、大事なことは、勇気を持って、故事が教えることを自分の現在に当てはめてみることだと思います、昔と今とでは条件が違う、などと思わずに。 目次へ |