川村教授による特別講義

第18回  川村教授による特別講義

[ 三國志のお話 Vol.1 〜 字について ]

 今回「ちゅうごくちゅうどく」では、念願の客員教授をお迎えすることができました。今回講義をして頂くのは、日本フィルコンサートの常連でもある、川村梓先生です。川村先生は中国、わけても「三國志」についての造詣が深く、「ちゅうごくちゅうどく」の超難解客員教授試験にも満点で合格されました。
  ちなみにその時の問題は、
 三国志の三国の名前を次から選べ。
1.魏、蜀、呉
2.エストニア、ラトビア、リトアニア
3.(なんだったか忘れましたが、後で「美濃、尾張、三河」にするべきだったと後悔したのを覚えています)
 でした。ううう・・・、なんとシンプルで高度かつ原理的な問題なのだろう!

 前置きはこのくらいにしておいて、早速、先生の講義を拝聴することにしましょう。本日の演目は「三國志のお話 Vol.1 〜 字について」です。


 曹操"孟徳"、劉備"玄徳"、孫権"仲謀"、諸葛亮"孔明"・・・。三國志を読んでいるとたくさんの「字(あざな)」というものに遭遇します。これを単なるニックネームと思うなかれ。この字というもの、調べてみるとなかなかに奥深いものがあり、面白いものです。
 まずは姓名と字の関係を整理してみましょう。本来、"姓"は一族を表し、"名"はその個人の名称を表します。まあ、言われてみれば確かにその通りですよね。では"字"とは?

 『中国で、男子が成人後、実名のほかにつけた名。実名を知られることを忌む風習により生じ、字がつくと実名は諱(いみな)といってあまり使わなかった。日本でも漢学者などが用いた。』 (大辞林第二版)

辞書によると上記のようになります。この『実名を知られることを忌む風習』とは、古代中国で信じられていたある呪いに関係しています。この呪いを実行するには相手の実名、つまり姓名を知る必要がありました。従って他人に実名を知られてしまうとこの呪いに使われてしまう可能性があると恐れていたわけです。そこで字というものが登場することになります。字を用いればコミュニケーションは円滑になりますし、実名ではないので、他人に知られても呪われる心配はありません。また当然のことながら、"姓"は生まれた一族によって既に決まっており、"名"は親がつけます。対して"字"は成人後に自ら決めることができました(親とか兄とかが口出ししていた可能性はありますが・・・)。従って将来の願望などをこの字に込めることもできたので、本人も好んで使用したと思われます。

 さすがに三國志の時代になるとこの呪いは信じられていなかったようですが、この『実名を知られることを忌む風習』は残っており、基本的に実名は使いませんでした。例外として、親は実名を呼ぶことができました(名をつけた当事者なので当然ですが)。これが転じて、本人が親同然と考える人、すなわち君主や師匠・先生などは実名を呼んでいたようです。
 ところで、よく小説・マンガ・ドラマなどで、部下が「曹操さま」などと話し掛けているシーンをよく見ますが、これは大きな間違いということになります。部下が君主の実名を呼ぶことなど有り得ません。逆に、劉備が諸葛亮に対して「孔明どの」と呼んでいるシーンもよく見かけますが、これも通常の君臣の関係であれば考えられません。ただし劉備と諸葛亮の場合、劉備は諸葛亮をいわゆる"先生"のように遇していたと考えられるので、有り得る話かな、という気もします。
 同様の習慣は日本にもありました。例えば戦国時代などで、本名や幼名などを呼ぶことができたのは両親や親族、主君、先輩やごく親しい同僚など限られた人間だけで、それ以外の人は主に肩書で呼んでいました。肩書には"お館さま"や"殿"などのほか、朝廷から与えられた官職もよく使われていたようです。例えば織田信長は初期の頃、上総介(かずさのすけ)という官職についていた(自称?)ので、上総介殿とか、上総介さまなどと呼ばれていました。ちなみに上総とは今の千葉県の南部あたりの旧国名であり、上総介はその副知事みたいなものです。ご存知の通り、織田信長は上総を支配したことはありませんのであまり意味はないと思われます。このように当時は実質的な役割とは関係ない官職が朝廷から与えられたり、または自称したりしているケースがほとんどでした。このあたりの話は中国とはほとんど関係ないので、今回はこれくらいにしておきます。
 さて、字は基本的に自由に決めることができたようですが、いくつか意味があるものもあったようです。その代表格が"伯"、"仲"、"叔"、"季"の4つの字です。それぞれ"1番目"、"2番目"、"3番目"、"末"という意味があったようで、すなわち兄弟でこの字を用いている人物が結構います。
 例を挙げますと、まず冒頭で紹介した孫権 仲謀は、孫堅 文台という武将の次男で、長男は孫策"伯符"、三男は孫翊"叔弼"四男は孫匡"季佐"といいます。ちゃんと順番通りになっていますよね。ちなみに四男の孫匡さんは別に末っ子ではないのですが、"季"という字は四男に用いていたみたいです。また五男以降の方の字には特にこういった法則は無いようです。同様に考えば、司馬懿 仲達は次男、馬良 季常は四男、など字から兄弟の構成などが判ってきます。ただし兄弟が必ずしもこの法則に従っていたわけではなく、字がバラバラの兄弟もたくさんいました。
 というわけで、上記のような字の習慣を理解してから文献等を読んでみると違った側面が見えてきて、また別の興味が涌いてきたりします。まあ、それほど大したことではないですが・・・。
 最後に、字とは関係ないのですが名前がらみということで一つお話を。
 三國志ファンにはわりと有名な人物に、徐庶 玄直という人がいます。初め劉備に仕えていましたが、策略によって曹操に仕えさせられてしまうという悲劇の人物として描かれ、劉備の元を去る際に諸葛亮の存在を告げるという重要な役割を三國志演義(小説)では演じています。正史三國志(歴史書)を読むと、徐庶と諸葛亮が同時に劉備の元で仕えている時期があることがわかるのですが、それはまた別の話。
 さてこの徐庶という人、演義でははじめ単福という偽名で登場しますが、正史ではその話しはなく、以前は徐福という名前だったのを徐庶に改名したという話しが紹介されているだけです。これは興味深いと思い、いろいろと調べてみると、当時の中国では"単"というのは姓ではなく「特に自慢するほどの家柄ではない」という意味を表しているということがわかりました。つまり単福というのは「特に自慢するほどの家柄ではない」家の出身の"福"という名の者だ、ということを表しており、つまりは徐福のことであるということがわかります。
 演義の作者、羅貫中はこのことを知らずに単福という偽名だと思ってしまったのか、それとも知っていてわざと偽名ということにしたのか、今となっては謎ですね。
 なお、ここまで"正史"と"演義"という呼称を何の説明もせずに使ってきましたが、これは話し出すと長くなりそうなのでまたの機会とさせて頂きます。ここでは、
  正史 : 三國志の時代の直後(晋の時代)に書かれた史書。作者は陳寿 承祚[233−297]
  演義 : 正史を元にして描かれた小説。作者は羅本 貫中(通称:羅貫中)[1310頃〜1380頃]
とだけ考えておいてください。


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