竜にまつわる故事成語(三)

第19回  竜にまつわる故事成語(三)

 前回は、川村客員教授による特別講座をお送りしました。真偽の狭間で玉虫色に書き散らかしている私の駄文に比べ、吟味され、しかもわかりやすい文章で、「字」について理解を深めることができました。

 さて、これをお読みになっている変人の皆様に朗報(?)があります。
 あなたも客員教授になりませんか。一切お金はかかりません(うれぴ〜)。謝礼は出ませんぞ(貧乏所帯だかんね)。客員教授資格取得試験問題はチョー難問(ガチョーン)。
 例えば、太公望について書いてみたい人にはこのような問題がでます。
 現在、「太公望」といえば何を指すか答えよ。
1. 釣り師
2. 詐欺師
3. 幕張市
中国にはちょっとうるさいぞ!と自負されているあなた!!早速、応募してみましょう。
 願書提出先:みんなの掲示板
 試験会場:みんなの掲示板
 合格発表:みんなの掲示板

 さて久々の「竜にまつわる故事成語」のですが、その前に、前回(竜にまつわる故事成語第2回。遠い昔だなあ。)の話の内容で、訂正箇所があります。
画竜点睛の話から西遊記の話へ移行する段階で「梁の武帝」の話をしましたのですが、そこで彼のことを
「西遊記に登場するとかといった、直接の関係ではないのですが・・・」
と書きました。ところが西遊記第37回に、一行が車遅国の宝林寺というところで一泊し、三蔵が禅堂で「梁皇水懺」というお経を念じる、という場面があります。この「梁皇」というのは「梁の武帝」のことです。お経の名前として出てくるだけで、本人が登場するわけではないので、絶対間違いだともいえないのですが、西遊記研究家を自負する私としては、これを見落としていた事への自戒の意も込めて、訂正しておきます。なお、この記述は、岩波文庫の西遊記(繁本系)にはありますが、平凡社の西遊記(簡本系)にはありません。

 それでは、「竜にまつわる故事成語」の3回目です。今日のお題は「亢竜、悔いあり」です。
 「亢竜」の読みは「こうりゅう」でも「こうりょう」でもよく、「昇りつめた竜」という意味です。「昇りつめた竜は、さらに昇ることはもうできない。退くことを忘れ、慎みを忘れていると、失敗して滅びてしまう」というのが全体の意味です。出典は「易経」で、「乾」の卦の上九にこの言葉があります。
 度々書きますが、「易経」という本は、非常に難解です。ですが、この「乾」の項は全部読みました。どうしてかというと、この卦は易経六十四卦のうち、最初の卦なので(だから、本の最初に出てくる)、「さあ、読もう!」という意思が、そのわけのわからなさにまだ打ち勝っていたのです。
 ところでこの「乾」を「かん」と読んではといけません。通は「けん」と読みます。「乾坤一擲」とあれば、「けんこんいってき」と読みますね。ちなみに「坤」は2番目の卦です。
 「亢竜、悔いあり」の具体例を中国の文献のなかで探すと、まず李斯が思い浮かびます。史記列伝第二十七「李斯列伝」(岩波文庫/史記列伝(二)P172〜173)に次のような描写があります。
 李斯は丞相、息子の妻はみな秦の公主、娘の夫はすべて公子となっていました。あるとき長男が帰省したので李斯は酒宴を開き、主だった人はすべて祝いの言葉を述べました。そのとき李斯は、
 「ああ、わしは荀卿さま(荀子のこと)から『物事の栄え過ぎるのはいましめよ』とうかがったことがあった。だいたいこの李斯は上蔡の一布衣、町の一平民にすぎなかったのだが、お上(始皇帝)にはこの身の愚昧さにお気づきなく、かくも高き地位にまでお引きたてくだされた。こんにち臣下の地位で、それがしより上の者はいない。富貴をきわめたと申せよう。物事は頂点に達すれば衰えるものだ。わが馬車がとまる所はいったいどこであろうかのう。」
と言いました。
 始皇帝の死後、李斯は宦官趙高によって陥れられて死刑になり、三族(父母、兄弟、妻子)すべて殺されてしまったのはご存知のとおりです。
 もう一つ例を挙げましょう。時代は唐の玄宗皇帝の時までぐっと下がります。楊貴妃のまたいとこに楊国忠という人物がいました。彼は元々、いわゆるならず者で、酒と博打に耽り、親戚からは相手にされず、しかたなく軍隊に入っていました。それが楊貴妃の縁者ということで、一躍、監察御史に抜擢され、さらに時の宰相李林甫に巧みに取り入り、一年足らずで度支郎中(財務大臣)になりました。そして李林甫の死後、ついに宰相の位まで登りつめたのでした。
 その頃、もう一人実力者がいました。安史の乱で有名な安禄山です。彼も巧みに玄宗、楊貴妃に取り入り、この二人から絶大な信頼を得ていました。この安禄山と楊国忠とは犬猿の仲で、安禄山は楊国忠を軽蔑し、楊国忠は安禄山をなんとか陥れようと企んでいました。
 楊国忠が宰相として常時、玄宗の傍にいたのに対し、安禄山は節度使として都と地方を行ったり来たりしていました。どうしても、都は楊国忠のテリトリーになります。身の危険を感じ、ついに本拠地(今の北京のあたり)へ引きこもってしまいました。精神的にどんどん追い詰められていった安禄山はついに謀反を決心します。それが安史の乱のうちの安禄山の乱(755)です。
 最初、楊国忠は高を括っていましたが、意外にも(楊国忠にとって)、洛陽はすぐに占拠されました。節度使は軍隊、しかも、辺境を守っている実際的な軍なのですからその辺のヘナチョコ軍とは鍛え方が違います。当たり前といえば当たり前でした。しかし今度は、洛陽と長安との間に位置する潼関(どうかん:天然の要塞)を抜かなければなりません。都に近いだけあって軍の士気も高く、難攻不落の城塞でした。ところが、専守防衛していれば良かったものを、楊国忠の命により出陣して戦い、破られてしまいました。ここが落ちれば長安を守る防波堤はもうありません。玄宗は楊国忠の勧めで蜀(四川省/成都)へ楊貴妃を連れ、「遷幸」(ここでは、逃亡と同義語)しました。しかし、途中で疲れと空腹から玄宗の護衛軍に反乱がを起きました。
 「この禍の原因は楊国忠だ!」
 あえなく、楊国忠は兵士に殺されてしまいました。
 その後、国忠の子も殺され、楊貴妃の姉も殺され、最後に楊貴妃も、兵の怒りを鎮めるためにと、玄宗が最も信頼していた宦官高力士によって殺されてしまいました。

 ええと、何の話でしたかね。たしか「亢竜悔いあり」のはずでした・・・
 成り上がりで学問も教養もない楊国忠は多分、「亢竜悔いあり」という言葉も知らなかったでしょう。一方、李斯は知っていたと思います。
 「物事は頂点に達すれば衰えるものだ。」と先の酒宴の席で述べていることがそれを物語っています。
 次に、「悔いないようにした亢竜」の例として張良を見ておきます(星野究の「人物探訪」に取り上げられています)。
 彼は劉邦に従い、漢建国に貢献した人物で、軍師、参謀といった役割です。その才能は大変なものであったらしく、劉邦にして
 「計りごとを帷幄の中に軍(めぐ)らし、勝利を千里の外に決することでは、吾は子房(張良のこと)に及ばない。」
 と言わしめています。ちなみにここを出典として「計りごとを帷幄の中に軍(めぐ)らす」という成語が出来ました。
 漢の6年(BC201、即ち項羽を破って天下統一を果たした翌年)、功臣に対して封賞を行い、張良に対して三万戸を封邑しようとしました。それに対して、張良は
 「お上と最初にお会いした留に封じてください。それで充分です。三万戸などとんでもありません。」
 と辞退しました。留がどのくらい大きいのかわかりませんが、思うにものすごく小さい、ひょっとしたら何十戸か、多くても何百戸くらいの邑だったのではと思います。
 このように、張良は全く欲というものがなく、万事に控えめでした。
 本当に欲がなかったのでしょうか。実際、そうだったのかも知れませんが、建国の功臣が次々と謀反の嫌疑をかけられ、失脚したり、逃亡したり、消されていく中、最後まで身を守り通したのを見ると、「悔いない亢竜」のあり方というものを思い描いていたのではと考えてしまいます。
 あるとき、
「三寸の舌をもって帝王の師となり、万戸の邑に封ぜられ(あれぇ、やっぱりもらったのかな?)、列侯の地位につらなった。これは庶民の地位としてその極みであり、良(わたし)としても満足である。願うところは。俗世間のことなど忘れ、赤松子(仙人)に従うて遊びたいと思うだけだ。」
このように述懐しています。「亢竜悔いあり」を知っていたに違いありません。

 以上、「亢竜悔いあり」の実際を見てきました。ところで、今までは亢竜が「退くことを忘れ、慎みを忘れている」と「悔いることになる」例でした。これは儒教的な考えです。というか、普通の考えなのですが、儒教では人間の欲望のうち、名声欲だけは積極的に認めています。例えば「論語:子罕篇第九」では「若い人は恐るべきだ(後生畏るべし)。これから出てくる人が現在の自分たちほどになれないと、だれがいえようか。四十歳、五十歳になって世間に少しも知られないようでは、これはまた恐るに足りない。」と述べています。ここでは「名を成す」ことが研鑽の一つの結果であるという立場を取っています。ですから儒教では、「悔いる」原因は、「亢竜」(昇りつめる)ではなく、飽くまでも、その後の身の処し方にあるとします。
 ところが、道教、特に荘子あたりは違います。「亢竜」そのものが「悔いる」原因だと主張しています。
 「荘子/外篇/山木篇」に「功成る者は堕(こぼ)たれ、名成るものは虧(そこなわ)る」(成功した者は、やがて足もとをくずされ、名声を得た者は、やがてそれを失うものだ)
 そのすぐ後、「至人は聞せず」(徳を大成した人というものは名が聞こえるということがないものだ)と続きます。
 「亢竜」となることが「悔いあり」の直接の原因であり、それゆえ、名が聞こえない(亢竜とならない)ようにせよ、というのがここでの主張です。  同じく「外篇/秋水篇」に次のような話が載っています。
 あるとき、荘子が釣りをしていました。そこへ楚王の使いの者がやってきて、
「どうか、宰相になってください。」
 と頼みました。そこで荘子は、
「楚の国には霊験あらたかな亀がおり、死んでから三千年になるが、王はこれを絹で包み、箱に入れて、祖先の廟堂のなかにたいせつに保存しておられるそうだ。だが、この亀は、死んでからこのように骨を残してとうとばれることを願っているのだろうか。それとも生きのびて、泥のなかで尾をひきずっていることをのぞんでいるのだろうか。」
 使いの者は、
「それはやはり生きのびて泥のなかで尾をひきずることを望んでいるでしょう。」
 そこで荘子が答えるには、
「では帰ってくれ。わしも泥のなかで尾をひきずることにしよう。」
 以上は「尾を泥中に曳く」の出典となっているところでもあります。ここでもやはり、亢竜となることを拒否し、平々凡々に生きることを説いています。

 最後に「徒然草」第八十三段を載せておきます。
 竹林院入道左大臣殿、太政大臣に上り給はんに、何の滞りかおはせんなれども、珍しげなし。一上にて止みなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相国の望みおはせざりけり。
 「亢竜の悔あり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。万の事、先の詰まりたるは、破れに近き道なり。

  (意訳)
 竹林の入道(注/西園寺公衡)が太政大臣に出世するときに、何の問題もなかったが「変わったこともない。左大臣でやめよう」といって出家してしまった。
 洞院の左大臣(注/藤原実泰)がこのことに感動してしまい太政大臣への出世の望みを持たなかった。
 「亢竜悔いあり」という話にあるように、月は満月になれば欠け、旬のものは腐る。すべて、極めたものは、破綻するだけだ。
 

目次へ