人間万事塞翁が馬


第二回   人間万事塞翁が馬


 次は何を書こうかなと題材を掲示版で物色していたら「一生懸命」が目に止まりました。私はこの言葉について書きたいことがたくさんあります。たくさんあるにはあるのですが、ここでは書けません。何故なら、この言葉はメイドインジャパンだからです(鎌倉時代の武士)。しかし、ひとつだけ書かせてください。
 私は「一所懸命」と書くのが好きです。
 何年か前に文部省は「一生懸命」と書くことを「正しい」としました。既に市民権を得ていると判断したからです。それまではどうであったかというと、例えば、私が愛用している昭和42年発行の新漢和中辞典(三省堂)などは「一生懸命」の項に「一所懸命の誤用」としています。
 言葉は生き物、どんどん変化していきます。それはわかります。しかし、国語を教える方も、教えられる方も、もっと語源に興味を持つならば、即ち、言葉を生かす側の言葉への接し方によっては、言葉の「生き様」も自ずと変わってくるのではないでしょうか。

 さて今回は、星野隊員(倶楽部なのに隊員は変なのですが、そのうち探検隊として中国へ行くかも知れない、ということで)の最新作「張良」に出てくる「人間万事塞翁が馬」を取り上げることにします。星野隊員も書いている通り、この故事は「淮南子」を典拠とします。
 まずは、読み方から始めましょう。「淮南子」は「えなんじ」と読みます。しかし場所としての「淮南」は「わいなん」と読みます。そもそも淮南とは淮河(わいが)の南という意味で、淮河を「えが」とは言いません。「淮」の慣用音は「わい」、漢音は「くゎい」、呉音は「え」です。遣隋使、遣唐使以降は漢音が大量に輸入されましたが、それ以前は南方の呉の辺りとの交易もあり、呉音が入ってきていました。日本フィルのファンの方なら一期一会という言葉を耳にした方も多いと思いす。「一期一会」=「いちごいちえ」は呉音です。但し「期」=「ご」だけは慣用音で、呉音では「ぎ」となります。多分最初は「いちぎいちえ」と発音されていたのが変化していったのではないでしょうか。
 話は「淮」に戻りますが、書物を「えなん」、地名を「わいなん」と読み分けるのは日本での読みくせだそうです(金谷治:淮南子の思想:講談社学術文庫)。こういう例は「荘子」を「曾子(そうし)」と区別するため、「そうじ」と読む、などにも見受けられます。
 次は、「人間」です。これは、「じんかん」と読むのが、正しいと思います。その場合、意味は、「にんげん」ではなく、「世間」となります。ただ、これを「にんげん」と読むと誤りかというとそうとも言えません。諸星轍次氏の「中国古典名言事典」、陳舜臣氏の「弥縫録」、芦田孝昭著「中国の故事・ことわざ」などは「にんげん」と読んでいます。しかし、この故事では「とかく世間というものは、〜」という意味ですし、出典が「淮南子」の中の「人間訓(じんかんくん)」という篇ですから、 やはり「じんかん」と読みたいところではあります。
 読みの問題は片付きました。次に「淮南子」という書物について簡単に見ておきましょう。この書物は前漢の創始者劉邦の孫に当る劉安(前179〜123)を中心にその食客達によって書かれました。このような形式の書物としては呂不韋の「呂氏春秋」があります。それでは何故この書物が淮南子と呼ばれるのかというと、それは劉安が淮南王だったからです。劉安は大変興味ある人物です。しかし、その生涯を語るのはこのコーナーの主眼ではありませんので、いつか星野隊員に書いてもらおうかと思います。そう思って星野隊員に話を持ちかけていたら、橋本隊員が傍から「マニアックすぎる。」
 中国古代の思想は、儒家(孔子)、道家(老子)、法家(韓非子)、兵家(孫子)など九家に分類されます(カッコ内は代表人物)。その分類によりますと、淮南子は雑家という分類に入ります。いろいろな思想が渾然と書かれている為ですが、それも当然のことで、複数の人の手によって書かれているので一人の人物が書いたような思想の一貫性はなかなか見出せません。しかし、全然ないのかというとそうでもありません。編集長でもある劉安の意向がそこには感じられます。概して淮南子には老荘思想に近いものがあり、「老荘」という言葉を初めて使ったのも淮南子だそうです。余談ではありますが、「老荘」を「荘老」としなかったのは誠に慧眼であったと思います。
 それでは、いよいよ、故事そのものを見ていきましょう。「人間万事塞翁が馬」。先にも書きましたが、この言葉は淮南子の人間訓という篇を典拠としています。但し、この言葉がそのまま書かれているわけではありません。その点、出典とは言っても注意が必要です。淮南子で語られているエピソードは、国境の塞(とりで=砦)に住む、戦(いくさ)に駆り出されるぐらいの年齢の息子を持った父親と近隣の人とで交わされる会話です。父親というだけで翁という表現もありません。今、成語として私達が使っている「人間万事塞翁が馬」という言葉の出典は別にあり、それは元の時代の元熙(げんき:1238〜1319)という禅僧が作った「径山の虚谷和尚に寄す」という詩です。この詩の最後に「人間万事塞翁が馬」という句があり、それがこの成語の初陣のようです。
 ここで簡単に筋を書いておきましょう。この「父親」の馬が逃げた。近所の人が慰めに見舞った。父親は、「なに、この災難がきっと幸福になろうよ。」と言った。暫くすると、逃げた馬がたくさんの駿馬を従えて戻ってきた。近所の人がお祝いを言うと、「この幸福がきっと災難の種になる。」と言った。そのうち、乗馬をしていた息子が落馬して足の骨を折った。人々がお見舞いを言うと、「なに、この災難が幸運を呼ぶだろう。」と言った。そのうち戦になり、多くの若者が借り出され10人のうち9人までが戦死したが、足の骨を折った若者は跛(原文のまま)だという理由で兵役を免れ、生命を全うした。
 そして最後に、「幸福が災禍になり、災難が幸運となるような、その変化のさまや道理の深遠なことは、予測もつかずきわめがたいものである。」とこの篇の述者は結んでいます。この話を代表した言葉が「塞翁が馬」で、世間(人間)はとかく(万事)そういうものだ(塞翁が馬)、というのがこの故事の言わんとするところです。
 最後に「禍福」の道理を述べた故事を集めてみましょう。
禍(わざわい)は福の倚る所、福は禍の伏す所なり(老子・第58章)
禍と福(さいわ)いは隣をなす(荀子・大略篇)
禍転じて福となす(戦国策・燕策/史記・蘇秦列伝)
禍福は糾(あざな)える縄のごとし(賈誼[ かぎ]・服鳥の賦)注:賈誼は前漢文帝の頃の人
禍の中に福あり。(淮南子・説林訓28)
禍と福とは門をおなじくす。利と害とは隣を為す。(淮南子・人間訓)
福は禍の門なり(説苑・談叢)注:説苑は前漢末の劉向の作
福過ぎて災い生ず(普書・ゆ亮伝)
 ざっと見てもこのぐらいあります。この中、唯一「禍転じて福となす」にだけは、無為自然ではなく、運命に打ち勝つという気概が見えます。しかし総じてこれらは、明日をもわからぬ戦国期の動乱を生きぬいた人々の幸不幸に対する知恵のエッセンスではないでしょうか。

参考資料

平凡社 中国古典文学大系6 「淮南子 説苑(抄)」
平凡社 中国古典文学大系3 「論語 孟子 荀子 礼記(抄)」
講談社学術文庫 金谷治「淮南子の思想」
社会思想社 現代教養文庫685 芦田孝昭「中国の故事・ことわざ」
講談社学術文庫 諸星轍次「中国古典名言事典」
講談社現代新書 会山究「故事成語」
中央公論社 中公文庫 陳舜臣「弥縫録」
平凡社 東洋文庫86 「燕策3」
岩波文庫 史記列伝(一)

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