三蔵法師

第四回   三蔵法師


 ふっふっふ、橋本隊員、お待ち申し上げておりましたよ、「西安、咸陽の旅・第4回」。なにしろ、次は玄奘の墓だとわかっていましたからね。
 そうです。どくとる・た〜き〜は玄奘のこととなると妙にはりきってしまうのです。
 そこで「ちゅうごくちゅうどく 第四回」では、いつもの故事成語の「出典を探る」というコンセプトから離れ、玄奘についてお話したいと思います。

 
 玄奘の掛け軸
( た〜き〜蔵 )
 玄奘は三蔵法師という名前の方が有名です。西遊記にでてくる三蔵法師と言えば、もうおわかりですね。そうです。悟空や八戒に守られて天竺までお経を取りに行く、あの腰抜けでわがままな和尚のことです。おまけに騙されやすく、八戒の口車に乗せられて幾度となく悟空を苦しめ、ひいては自ら災難を招いてしまいます。何かというとすぐ化け物にさらわれ、縛られ、食べられそうになりますが、物語の最初から能無しで弱虫なのではありません。取経の旅に出立する前と後ではがらりと変わっています。例えば出立前は、国を挙げての大法会の会主に選ばれたり、観音に声を掛けられて 「ひらりと壇上からとび降りて」 いたのが、出立後は 「馬からころげ落ちて、路傍の草むらにしゃがみ込ん」 だり、挙句の果てに妊娠までしてしまうテイタラク。西遊記は100回仕立て、そして取経の旅の出立は第13回、数字の上では88%は能無し弱虫わがまま和尚といえます。
 このように西遊記では散々な三蔵法師ですが、実際はどうだったのでしょう。
 それを見る前に、玄奘の代名詞にまでなっている 「三蔵」 について調べておきましょう。
 お経を集大成したものに 「大蔵経」 というものがあります。これは 「経蔵」、「律蔵」、「論蔵」 の三部門に分かれていて、このすべてに精通している僧のことを三蔵と言うのです。ですから、「三蔵」と呼ばれる僧は、玄奘三蔵の他に何人もいます。善無畏三蔵、義浄三蔵、金剛智三蔵、不空金剛三蔵など。そういう訳で、 「玄奘は三蔵だ」 、というのは正しいのですが、 「三蔵は玄奘だ」 、というのは正しくありません。しかし、一般的に、特に唐末以降、三蔵といえば、玄奘を指すようになります。ちなみに「経蔵」というのは釈迦の教え、「論蔵」 は 「経」 を詳しく説いたもの、「律蔵」 は僧の守るべき規則を説いたものです。
 
[西遊記]三蔵(左下)
  次に「玄奘」の読み方について。皆さん、今まで 「玄奘」 をなんと読んできましたか?「げんじょう」と読んでいませんでしたか?今ではその読み方があまりにも一般的になっているので、もはや「間違いである」とは言えません。ですが、試みにお手元の漢和辞典の 「奘」 を引いてみてください。慣用で「ジョウ」、呉音で「ゾウ」、漢音で「ソウ」となっていると思います。「ジョウ」と読むのは慣用で、ツウは、「ゲンゾウ」と読んでいます。逆に言うと「ゲンゾウ」と読めば、あなたはツウとみなされます(ツウからは)。言わば、「一所懸命」を「一生懸命」と書いても良い、と同じ類のことだと思っておけば良いでしょう。
 姓は陳、名は緯(い、又は、き)、これが玄奘の本名です。これほど高名な僧でも生年ははっきりしていません。生まれたときは高名ではなかったのですから、それも当たり前と言えば当たり前のことですが。西暦602年説が有力ですから、大体、西暦600年と覚えておきましょう。600年と言えば、隋の時代です。隋は581年(統一は589年)から618年までですから、ちょうど真ん中あたりに位置します。
 玄奘は四人兄弟の末で、既に僧侶であった次兄に連れられて洛陽(隋の首都)へ行き、若くして(11〜3歳か)経典の勉強を始めていました。この頃になると隋も末期に入り、世の中は騒然となってきました。そこで多くの高僧は戦火を逃れて、蜀の地(成都)へ移り住みましたが、玄奘も又、高僧の講義を聴くため、兄とともに蜀へ行きました。
 
[西遊記]三蔵(中央)
   もともと、優秀な人間が研鑚に研鑚を重ねたものですから、もう大変、ついに、誰も玄奘を教えることができなくなってしまいました。一方、玄奘は、いくら勉強しても、わからないこと、腑に落ちないことは解決せず、次第に苛立ちを覚えるようになりました。そして遂に、「ええい、こうなったら、本場、天竺へ出向いて原典を読むしかなあい!」そういう結論に達し、仲間と共に出国願いを国へ申請しました。世は唐第二代皇帝太宗(李世民)が即位したての頃、政情はなお不安定、一般市民の出国はまだ禁じられており、申請は却下されました。玄奘、それでもめげません。何度も何度も申請します。その度に却下され、仲間は次第に諦め、遂に玄奘唯一人になってしまいました。 普通なら、ああ、やっぱり駄目かと諦めるところでありますが、我らが玄奘、その辺は凡人にあらず、「許可が下りねばだまって行くさ!」と、一人で天竺行きを決行してしまいました。
 出立の年代も諸説ありますが、629年が有力です。それから帰国するまでは、比較的はっきりしています。というのは、帰国後、太宗の命によって 「大唐西域記」 という旅行記を著し、それが現在に伝わっているからです。天竺で諸国(天竺の)を巡りながら研鑚を積みました。どのくらい勉強をしたかというと、仏教大学のマスタークラスで講義をするくらいになっていました。ちょうど、田舎で勉強していたら、行き詰まり、「こうなったら東大で勉強するしかなあい!」と思って親に「東京さいくべ」といったら、「東京はこわいとこだんべ。駄目さあ」といわれ、家出して東大へ入り、勉強して教授になっちゃった、という感じですね。
 それはともかく、天竺でも指折りの高僧になった玄奘はそこの老先生とも相談し、遂に645年、膨大なお経を携えて帰国しました。
 中国の歴史を最初から順を追って読んでいくと、「唐」 というとかなり 『近代』 に来たなあ、と実感します。星野隊員も同様の感想を漏らしています。橋本隊員に至ってはは三国志(3世紀)は、既に現代のようです。ところが、日本で645年というと、「大化の改新」 の年です。私たちの感覚で、「大化の改新」 は近代でしょうか。いやいや、そうではありますまい。そのちょっと前は、聖徳太子の時代です。どちらかと言うと、「遠い昔の時代の終わりの方かな」 、ではないでしょうか。このギャップが、中国のすごさなのだと思います。
 
[西遊記]三蔵(左)
  閑話休題。
 玄奘帰国の時は、まさに英雄でした。さしずめ、国民栄誉賞の最有力候補のような僧侶の帰国を一目見ようと、当時、長安は大変な騒ぎになったようです。
 この辺りに私は玄奘の政治家としての手腕を感じます。テレビもラジオも電話も車もない時代です。手紙、人などを使って自分のことを前宣伝していたわけです。それも皇帝相手にです。
 太宗李世民はこのとき洛陽にいて、まさに高句麗へ親征へするところでしたが、これを遅らせてまで玄奘に謁見しました。勿論、太宗には太宗なりの計算があり、西域の情報が喉から手がでるくらい欲しかったのです。 そして、太宗は玄奘に還俗して政務を補佐して欲しいと頼みました。
 「いやいや」。
そこで太宗は、高句麗親征に同行して話の続きを聞かせて欲しいと頼みました。
 「なかなか」。
 結局玄奘は、皇帝の頼みのどちらも断ってしまいました。挙句、自分の天命である(と信ずる)訳経の環境(仕事場、彼を助ける人たち)を太宗に整えてもらったのです。
 ただの学問好きの僧にできる技ではありません。ある意味では、太宗を凌ぐ政治的手腕を持ち合わせていたと言えます。そして太宗と玄奘の関係は太宗が亡くなるまで良好(しかしながら緊張した)でした。そして、次の高宗も玄奘を厚く信任しました。そして玄奘は訳経の仕事にひたすら従事したのでした。今、日本で広く唱えられている般若心経は玄奘訳のものです。
 猛烈なスピードで訳経の仕事をした玄奘ですが、それでも彼が持ち帰ったお経をすべて訳することはできませんでした。彼が亡くなったのは664年です。死の少し前、玄奘は自分の埋葬について弟子に指示を与えました。
 「わたしが死んだら、むしろでくるみ、どこか山の谷あいに安置しなさい。」
 実際、玄奘は長安の東南を流れる川のほとりにある白鹿原というところに埋葬されました。5年後、長安南郊の樊川(ハンセン)というところに改葬され、それが後、興教寺になりました。橋本隊員が撮影したのはそこの唐三蔵塔です。

 
岩槻市慈恩寺
た〜き〜撮影
   玄奘のお墓については後日譚があります。偉い人のお墓には通常、色々高価なものも一緒に埋葬されます。そして、世が乱れてくると墓荒しが出没します。玄奘の場合も、改葬されたときに立派なものになったのでしょう。唐末、黄巣の乱のころ、盗掘にあい、墓は荒らされ、しばらくそのままになっていました。それを演化大師という人が、北宋のとき(1027)、南京へ改葬しました。しかしそれもその後の戦乱で場所もわからなくなってしまいました。
 ところが、1942年、南京占領中の日本軍の手によって発見されたのです。詳しいことは省きますが、そこへ稲荷神社を建立しようとしたことによって、石棺が発見され、そこに、経緯が書いてあったのです。お稲荷様々といったところです。そして日本軍は、南京政府から [ 発見していただいた感謝の気持ち ] として頂骨を分骨してもらいました。その後、色々なことがあって、岩槻市にある慈恩寺に納められました。慈恩寺が選ばれた理由は戦火を逃れるため、又、寺の名前が玄奘にゆかりがあったためのようです(経典翻訳のため、太宗から与えられた道場の名前)。

 最後に、何故私が玄奘のことになると妙にはりきってしまうのかお話しておきましょう。
 「好好中国倶楽部」の「御挨拶」にも書いたように、私の専門は「西遊記」です。西遊記というのは、元を正せば、玄奘の「大唐西域記」が底本になっています。実際は、底本になっているとは言いがたいほど変形されていますが。そういう訳で、玄奘のことになるとはりきってしまうのです。本当は、三蔵が孫悟空というサルを連れて行く前は、虎を引き連れていたということも考証したかったのですが、あまりにも長くなってしまうので割愛せざるを得ませんでした。いつか、どこかでお話したいと思います。

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