猿にまつわる故事成語(一)

第28回  猿にまつわる故事成語(一)

 一旦は廃刊となった「ちゅうごくちゅうどく」は、この度、目出度く復刊の運びとなりました^^。理由は、まあ、色々あるのですが、一つには、「よくわかる西遊記」があまりにもマニアックで読む人などいないだろうなあというひけ目をずっと感じていることがあります。アクセスログを見ても、これが上位に来たことはありません。それに比べて、本当に不思議なことなのですが「ちゅうごくちゅうどく」の表紙は今月(2004.5)、訪問者数で15位にランクされています。15位といっても、ドットコムにある全ファイル4072(こんなに作ったのか!)中の15位ですから、かなり上位です。しかも一年近く新作発表がない状態なのですから、これはもう大健闘というか、日フィル周辺には変わった方が大勢いらっしゃるとしか言いようのない現象です。
 もう一つの理由は、ドイツのオケにずっといる私の高校〜大学の同級生M氏が、私の書いた中国の話を読んでいる、という話を聞いたことです。直接聞いた訳ではないのですが、これを伝え聞いたとき、大変うれしく思いました。この「中国の話」って、まさか、「よくわかる西遊記」じゃないでしょう。どう考えても「ちゅうごくちゅうどく」です。
 さらに、非常に自尊心をくすぐられる現実を知ったことも強い動機となりました。なんとここに「ちゅうごくちゅうどく」が引用されていたのです。そこで「ちゅうごくちゅうどく」の最後となった「大地の歌」に関する駄文が絶賛されていたのです\(^o^)/
 そういう訳で、もう一度書いてみようかという気になりました。
 それでは皆さん、故事成語の出典を求めて、どこまで本当なのかウソなのか、その境目をふらつくことをモットーに、「ちゅうごくちゅうどく」は、再び始まります。「よくわかる西遊記」は勿論継続します。こちらも宜しくお願いします。あら筋だけでも、読んでんか、絶対面白いわ。

 今回は、よくわかる西遊記にちなんで、猿にまつわる故事成語を調べてみようと思います。猿関係の故事成語で有名どことして、まず朝三暮四を挙げることができますが、これは既に荘子第二回で取り上げたので詳しいことは割愛します。一つだけ書き足しておきます。「よくわかる西遊記」第5回で取り上げた「サルの種類」についてなのですが、朝三暮四に出てくるサルは原文では「狙」となっています。「ネラう」という字です。辞書を引いてみると@サル、狙猴A手長猿Bネラう、となっていました。「サル」が原義で「狙う」はそこからのイメージで派生した意味のようです。私の漢和辞典は三省堂の新漢和中辞典ですが、やはり、猴と猿とを区別していますね。詳しくは「よくわかる西遊記」第5回で。。。
 朝三暮四の次に有名なのは、断腸だと思います。これは「断腸の思い」という形で用い、「耐えかねる悲しみ」という意味を表します。出典は「世説新語」です。ひょっとしたら世説新語、「ちゅうごくちゅうどく」初登場かも知れません。この書物、三〜四世紀の中国貴族社会の逸話集で、五世紀中ごろ、南朝宋の劉義慶という人が、それまで語り継がれていたものを文章にしたものです。ただ、彼一人の作業ではなく、彼の配下の文士たちも手伝ったようです。彼は皇室の出で、宋の初代皇帝武帝の甥に当ります。
 さて、この故事は、世説新語の黜免(ちつめん:官位を落とされ免職されること)篇に出てきます。
 桓温が蜀に攻め入る際、三峡にさしかかった時のこと、一人の兵士が子猿を捕まえました。母猿は岸づたいに悲しい声をあげ、百里あまりも追いかけた末船に飛び込み、そのまま息絶えました。腹を割いて調べてみると腸はすっかりずたずたにちぎれていました。桓温はそれを聞いて立腹し、その兵士を免職にしました。
 (筑摩書房、中国古小説集を参考にしました。)

 桓温:東晋末期の人(312-373)。荊州刺史(武昌、今の武漢。東晋の西域を守る重要な拠点)となり、蜀、関中を平定し、着々と実力を伸ばし王朝簒奪一歩手前まで行ったが、病没。この故事は346年、蜀の成漢討伐に向ったときのもの(だと思う)
 三峡:長江が四川省から湖北省に流れ出るところにある峡谷。く塘峡、巫峡、西陵峡の三つ。

 以上が世説新語の内容です。ここですぐ感じる疑問は、何故、兵士が飛び込んできて死に絶えた母猿の腹を割いたのかということです。まるで猟奇事件です。それとも、当時既に、深い悲しみを経験すると腸がちぎれるという言い伝えがあったのでしょうか。その辺のことはよくわかりません。管見では(おお、カッコイイ!)世説新語より古い文献に、断腸を見た記憶はありません。ですが、悲憤を感じたとき、お腹が痛くなることがあるという生理作用は珍しいことではないでしょうから、以前からそういう言い伝えがあったのかもと推測しても不自然ではありません。兵士はその真偽を確かめてみる気になったのかも知れません。
 現在では、この「断腸」を悲しい時だけではなく、深い憤りの時や強い無念を表す時にも使っているような気がします。
 「このような残虐な事件が起こり、まさに断腸の思いです。」
 憤りを感じたときには、「腸が煮えくり返る(煮え返る)」と表現します。悲しい時、憤りを感じた時、両方とも、お腹が痛くなるという生理作用が起こる点で似ています。その辺りから、「断腸の思い」と「腸が煮えくり返る」との混用が始まったのだと思います。本来、
 「このような残虐な事件が起こり、まさに腸が煮えくり返る思いです。」
 が、正しいのでしょうが、実際問題、悲しみと無念や憤りがそれぞれ無関係に独立していることは稀であり、それぞれがある事件によって同時発生、または継続的に発生することが寧ろ普通です。そういうことから、この二つの故事成語を厳密に区別することは心的には難しいことかも知れません。そもそもこの断腸の故事からして、先に書いたように残虐な猟奇事件なのであり、悲惨、悲痛、悲憤はそれぞれが独立して存在するものではない、ということをよく物語っています。
 補説:怒りは頭にくる事も多く、寧ろそちらの方が普通。怒り心頭、頭にくる、カーッとする、など。

 少し話が暗くなってしまいました。中国の話を読んでいると、ショッキングな事件に出会うことは稀ではありません。次に挙げる故事成語も明るい話とは言えません。お題は「沐猴に冠す」です。
 出典は、史記の項羽本紀、漢書陳勝項籍伝、十八史略などですが、出典からもわかるように時代は項羽や劉邦が覇を争っていた頃で、中国の歴史の中でも最も面白い時期の一つです(最も面白い事が幾つもあるのか!)。  項羽や劉邦をはじめ、大勢の武将が中国の統一を目指し、互い、凌ぎを削っていましたが、その中でも特に有名な場面が紀元前206年の「鴻門の会」です。その2年前、秦に造反した諸将が楚の懐王を擁立しましたが、その懐王が諸侯に「秦の首都・咸陽に一番乗りを果たした者に関中を与える」と約束しました(懐王之約)。その約の元、諸侯は咸陽を目指していましたが、最初に咸陽に入ったのが、劉邦で紀元前207年のことでした。一方、項羽は一足遅れ、函谷関に辿り着いた時、劉邦の咸陽入りを耳にしました。
 「あーあ、一番は劉邦ちゃんに取られちゃった。」
 と素直に諦めるような項羽ではありません。諦めるどころか大いに怒り、そのまま西へ進み、鴻門に駐屯しました。
 項羽にはそれなりの勝算がありました。兵力の差です。項羽軍40万に対して、劉邦軍はわずか10万、劉邦とてこの差は如何ともしがたく、結局、劉邦が鴻門にいる項羽の所へ弁明に出掛ける破目となりました。これが世に言う鴻門の会です。劉邦が先に入り項羽をお待ちしていたという形で、今度は項羽が咸陽に入りました。
 関中を手に入れるということは、事実上、天下のあるじになるということです。しかし、焼け落ちた町並みを見(自分で火をつけたのにね)、また、望郷の念にも駆られていた項羽はここに留まろうとはしませんでした。韓生という人物が、「関中は山河で四方がふさがった天然の要塞。土地も肥え、ここを都とすれば天下の覇者になれるでしょう。」と言ったところ、項羽は「富貴となって故郷に帰らないのでは、錦を着て夜行くようなものだ。誰にも見てもらえないではないか。」と答えました。それに対し、韓生は「人は『楚人は沐猴が衣や冠を身につけただけ』と言うが、本当にその通りだった。」と言ったものですから、怒った項羽に煮殺されてしまいました。
 ・・・やっと、辿り着いた。。。項羽は楚の出身なので、楚人とは項羽のこと、沐猴とは、まあ、サルのことで、調べると、獼猴の転用音らしいのですが、中国語の発音に関しては全くの無知ですので、「ほー、そうなのか」という理解に止めておきます。故事の意味は、「外面は着飾っているが、中身は愚かである」で、一般に外見に比して中身のない人のことを指して言います。
 この項冒頭に挙げた、三つの出典のうち、史記だけは、一言多かったため煮殺されてしまった(しかし、後世に名を残した)人間を「韓生」とはせず、ただ「説客」としています。また、史記、十八史略では「煮殺した」ことになっていますが、漢書では「斬った」となっています。参考までにこの三書の成立年代の早いもの順に挙げておくと、史記、漢書、十八史略となります。
 韓生のことはよくわかりません。通俗漢楚軍談では「韓生を左諫議」としているようですが、根拠はさっぱりわかりません。
 この辺り、歴史的にもダイナミックですが、故事成語という観点から見ても、まるでベートーベンの「傑作の森」のように、人口に膾炙(かいしゃ)した故事成語が林立しています。劉邦が咸陽に入ったとき、それまでの秦の複雑な法律を破棄し、「法三章」を宣言しました。鴻門の会では、范増が項羽が劉邦を許したの見て、「豎子与に謀るに足りず」と吐き捨てました。韓生の進言に対して答えた項羽の「錦を着て夜行くようなものだ」も、「錦(にしき)を着て夜行くが如(ごと)し」というフレーズで後世に残りました。又2年後には、范増は「骸骨を乞う」と言って、項羽の元を去りました。
 

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