荘子第一回

第三回   荘子第一回 故事成語以前


 俗に「孔孟思想・老荘思想」と言ったりします。「孔孟」とは孔子と孟子のことで儒家を指し、「老荘」は老子と荘子のことで道家を指します。儒家とか道家とか、なにやら難しそうですが、どくとるた〜き〜流の説明を聞けば、それこそ、「目から鱗が落ちる」です。
 ちなみに「目から鱗が落ちる」の出典はどこかというと、な、な、なんと新約聖書でした。メイドインチャイナじゃあないんですね。それにしても、どうやったら目に鱗が入るのかしら。
 こうやってすぐ脱線するのは私の悪い癖です。反省。
 儒家というのは、ま、簡単に言えば、「勉強せえ!」という考えです。それに対して道家は、「勉強せえとは小賢(こざか)しい。勉強なんかすなあ。なんもすなあ!」という思想です。この説明は100%正しいとは言いませんが、80%くらいは当たっています。
 この四人、即ち、孔子、孟子、老子、荘子にはそれぞれ、その名前を持った本(孔子だけは論語)があります。そしてその書物は、故事成語の宝庫でもあります。今回は、その中から「荘子」を取り上げます。それも一回では到底無理なので、本日は「荘子第一回・故事成語以前」とします。故事成語以前というのはどういうことかと言うと、あまりにも馴染みが深すぎて、「ことわざ」だという認識も薄い言葉、という意味です。
 まずは、「庖丁」から。庖丁とは、ほれ、料理のときに使うあの庖丁のことです。これが故事成語だという意識はあんまりないですよね。ところが出典ははっきりしていて、荘子内篇・養生主(ようせいしゅ)篇に出てくる話が元になっています。「庖」は料理人という意味、「丁」は人の名前で、全体で料理人の丁さんということになります。但し、本家中国では庖丁というと料理人を指します。話は、料理の達人、丁さんの庖丁さばきや話を恵王という魏の王様が見聞きするという構成をとっています。 丁さんはこう言っています。「最初は、牛の姿ばかり見ていましたが、そのうち目につかなくなりました。今では、心で牛に向かっていて、目では見ていません。牛の体の自然の筋目にそってさばきますから、骨と筋とが絡み合ったところに出会うこともありませんし、庖丁を骨にぶつけて刃を欠けらかすということもありません。」
 この丁さんの話の中、「骨と筋とが絡み合ったところに出会う」というところも「肯綮にあたる」という成語になりました。意味は「物の急所をつく」です。

 次に「小説」です。これは雑篇の外物篇にあります。元々は、今の意味ではなく、つまらない論説という意味です。どういうわけか、中国では小説はあまり発達しませんでした。詩を作るのが本道で、小説は外道とされました。作ったとしても名前を明かさぬことが多く、文士が手を染めるものではないという考えが根強くありました。ですから「西遊記」も「封神演義」も「金瓶梅」(一応、笑笑生とありますが、笑笑生が誰かはよくわからない)も作者についてはよくわからず、それが逆に格好の研究材料にもなったりしています。
 さて、日本ではいつから今の意味で「小説」を使うようになったかというと、それは坪内逍遥が最初です。「小説神髄」(明治19年)のなかで[novel]の訳語として「小説」を当てました。これは不思議といえば不思議なことで、彼がこの言葉の出典を知らなかったとも考え難く、また、小説を「つまらないもの」と考えていたはずもなく、どうして彼がnovelの訳語に小説を当てたか、誰か教えてください。

 もうひとつ「至れり尽せり」を挙げておきましょう。「えっ、これって出典があるの?」と思いませんか。なんかわりと最近の造語のようにも見えますが、実は内篇の斉物論を典拠としています。今は「申し分のない(サービス、世話)」などと使います。「申し分のない」というところはあっています。ちょっと原文の読み下しを紹介してみましょう。「未だ始めより物有らずと為す者有り。至れり尽くせり」(中公文庫:荘子:森三樹三郎訳注)
 なかなか難しいですね。意味は、「はじめからいっさいの物は存在しない。(この知恵が最高のものであって)既に究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはやつけ加えるべきものは何もない」ということになります。今使っている「至れり尽せり」とは雰囲気がかなり違うと思います。
 昔なら、「木野雅之、至れり尽せりのシベリウス!」と使えます。
 今回はここまでです。第二回では、もっと故事成語らしいものを取り上げます。

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