荘子第二回

第五回   荘子第二回


 最近、掲示板に 「虎視眈々」 が現れました。どなたがお書きになったのかと思ったら、川村客員教授でした 。・ ・ ・ 教授相手に講義はできませんね。
 教授以外の皆さまへ。
 この言葉は、ウソかホントか定かでない、 「易経」 という書物に出てきます。さらに、この本はウソかホントか定かでない上、難解であります。読んでいると、授業が理解できない生徒のような気分になってきます。こんなうさんくさい本を何故、読まねばならんのだ!?。ですから、この書物は最初から批判的精神で読んでは駄目です。まずは、「へええっ、そうなんだ!」という驚愕的盲目的従順的肯定的態度で接しないと最後まで読めません。
 「虎視眈々」 の意味は、虎が目を光らせて獲物を狙う、という意味です。その後、原文は「其欲逐逐、无咎」 と続き、「その様な姿勢で、為政者が民をうるおす益を求めてやまないならば、当然、咎めがあろうはずがない。」 となります。

 さて、荘子第二回です。第一回では「小説」、「庖丁」など故事成語というよりは荘子を出典とする「名詞」を中心に取り上げました。今回は、もっと故事成語らしいものを取り上げてみましょう。
 まず、「井の中の蛙、大海を知らず」です。これは外篇の中の秋水篇に出てきます。
 「井の中の蛙」 の話の前に、荘子の 「篇」 について説明しておきます。荘子は大きく 「内篇」、「外篇」、「雑篇」 の三つに分けられています。このときの 「篇」 は、「巻」 に該当します。そしてその中にはたくさんの 「章」 があり、それも 「秋水篇」 のように 「〜篇」 といいます。紛らわしいのですが、「内篇」、「外篇」、「雑篇」 は 「巻」、それ以外は 「章」 だと覚えましょう。

荘子の切手
庄子と書いてあるのに注意
なんでこんな顔だとわかるの?
 さて、話を戻しまして、荘子には、「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」はそのままの形では現れません。これは第二回でお話しました 「塞翁が馬」 と同じで、その中で語られる話を要約したものがこの言葉です。公孫龍という人の問いかけに対して、魏牟(ぎぼう)という人がいろいろ答えているのですが、その中に出てくる例え話がこの話なのです。
 古井戸に住む蛙が東海の大亀にむかって、自分の住むこの井戸がいかにすばらしいかを自慢し、大亀に一度入ってくるように勧めました。そこで大亀は入ろうとしたのですが、左足一本いれると、もうつかえて入れなくなってしまいました。大亀が言うには、
「わたしの住む東の海は、例えようがない位広いし、千仞の山を持ってきても、底には届かない。どんなに大雨が降っても水かさは増えないし、どんなに日照りが続いても、水が減ることはない。そのような大きい所に住むのがわたしの楽しみだよ。」
 これを聞いた蛙は、腰を抜かさんばかりに驚き、呆然として吾を忘れてしまいました。
 これが話の内容です。この話から、自分 (又は、自分の属する世界) が一番だと思っている人を「井の中の蛙」と言うようになりました。なお、この故事では 「蛙」 は 「かわず」 と読みましょう。 「かえる」 でも間違いではありませんが、 「かわず」 だと最後の 「知らず」が韻を踏んで気持ちいいです。
 この話に出てくる公孫龍という人、苗字が公孫で名前が龍です。こういう姓を複姓と言い、「司馬」、「諸葛」 などがあります。かつて、私の持っている本 (多分、国語) で三字姓を見かけたのですが、今探しても見つかりません。ああ・・・(アタマ悪)。名家に分類される人ですが、詭弁学派と言った方がわかるかも知れません。「白馬は馬にあらず」という言葉が有名です。
 この言葉、色々なところで解説を読みましたが、未だ充分な納得はできていません。
 白馬は、色の成分の白(これをAとします)、形の成分である馬(これをBとします)に分析できます。そうすると白馬はA+B、馬はB、A+B≠Bですから、白馬は馬ではないとか、馬というと白い馬も茶色の馬も黒い馬も指すが、白馬は白い馬だけを指す、だから白馬≠馬だ、とか・・・。
 ありがとうございました。次の方、どうぞ、と言いたくなりますが、荘子の友人の恵施も同じ名家の人で、恵施が死ぬと荘子は、「ああ、語る人を失った」と嘆いたそうですから、私はまだ、名家の真髄を知らぬのでしょう。

イソップ?
 イソップ寓話集に 「井の中の蛙」 に似た話で「お腹を膨らませる蛙」 があります。牛を見た蛙の子供が牛を見たことがないお母さん蛙にその大きさの話をし、お母さん蛙は、そいつの大きさはこれくらいかい?と言いながらどんどんお腹を膨らませていく話です。このお母さん蛙は、自分よりはるかに大きな生き物を知らなかったという点で、「井の中の蛙」であります。どちらも蛙というところが面白い一致です。
 ところで、イソップとはいつ頃の人か知っていますか。私は知りませんでしたが、なんと2600年も前の人だったのですね。荘子よりさらに250年ほど前、孔子よりも前(BC552〜479)、重耳が覇者になったのがBC632ですから、重耳より少し後くらいです。さすがギリシャ!

 もうひとつ、有名なところを取り上げましょう。
「朝三暮四」です。出典は「内篇」の「斉物論篇」です。実はこの章、荘子の思想上、核となる部分であります。万物斉同、絶対無差別の論理が展開されています。のん気に故事成語の話をしている場合ではないのですが、思想にまで踏み込むと、私の手には負えなります。興味のある方は、インターネットで検索してみるか、本を読んでみてください。絶対、損はしません。
 話の内容は、猿廻しの親方が猿に、「とちの実を朝3個、夕方4個あげよう」 と言うと猿は腹を立てた。そこで 「朝4個、夕に3個あげよう」 というと大喜びをした、というものです。
 そこから、結局同じなのに、眼前の差別にのみこだわることを朝三暮四というようになりました。
 この朝三暮四の話は、列子という書物にも載っています。荘子と同じく道家の列禦寇という人が書いたものとされていますが、道家の例にもれず、荘子以上に謎の人です。現在では、荘子より後の人とするのが定説のようです。そして荘子と同様、複数の人の手によって書き継がれたもののようです。

列禦寇
 列子では、朝三暮四の話が詳しくなっています。まず、猿廻しの親方は 「宋」 の国の人ということになっています。 それから、話を持ちかけたのは、貧乏になったためで、猿の食い扶持を減らそうと、最初から、だまして言いくるめようとしたのだと書いてあります。 ですから、最初、「朝3個、夕方4個」 と言ったのは、全部で7個に減ったことへの不満を、朝もらえる個数が少ないということへの不満へすりかえるのが目的だったわけです。そしてその後 「朝4個、夕方3個」 と言って、サルの不満を解消させ、全体の数が減ったことを忘れさせることに成功したのでした。そして話の結論として、「聖人が知恵をはたらかせて多くの頭の鈍いヤツを言いくるめるのも、ちょうど猿飼いが頭をはたらかせて猿どもをくるめこむようなものである。 言葉の中身はちっとも変わっていないのに、それでいて相手を喜ばせたり怒らせたりしているのだ。」 としています。この話から、朝三暮四は「人をごまかすと」いう意味にも使われるようになりました。
 列子の結論は、主として猿飼いの方から見ています。それに対して荘子の方は、猿を中心に見ているということができます。
 この故事は読めば、なるほどと思い、「やっぱりおサルさんはオバカね。」 と思うのですが、さて実際、自分の生活に当てはめて考えてみると、私などはおサルになってしまうことがけっこう多いのです。そうなのです。私、眼前のご利益に、大変弱いのでございます。例えば、今日食事をご馳走してもらい、来週コーヒーを奢ってもらうのと、今日コーヒー、来週食事とでは、やはり先に食事の方を選んでしまいます。
 再び、イソップ寓話集に登場してもらいましょう。例えば、「ナイチンゲールと鷹」の話では、捕まえられたナイチンゲールが「私は小さい。もっと大きな鳥を捕まえてください。」と言うのに対し、鷹は「手の中のご馳走を放り出して、まだ見ぬものを追いかけるのは、とんだ抜作だろうよ」と言っています。又、「漁師と鰊(ニシン)」の話で、鰊が同様のことを言うと、漁師は「手の中の儲けを放り出して、不確かな希望を追いかけるなら、わしはうつけものだ。」と言っています。このようにイソップは、「不確かなものより確かなもの」という考えです。
 朝三暮四では「全体としては同じなのに」という前提があるのですが、実生活では、果たして全体として同じなのかどうかという見極めが必要です。
 

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