荘子第三回

第六回   荘子第三回


 台風11号が日本へ接近した時、私は帰省していて、久しぶりに三重の実家で台風を経験しました。幸い、天気予報の予想ほどには強風が吹かず、ほっとしました。ただ、雨量は物凄く、樋の処理能力をはるかに上回り、雨水があふれ落ちていました。
 ところで、台風は南の海上で発生してから北または西北の方へ進んできて、その多くは日本近辺で突如、進路を東に変えます。気象学的に説明すれば、ああ、なるほどと思うのでしょうが、一見、これは不思議です。私は子供の頃、父にそれを尋ねました。すると父は、「台風は中国が怖いんや。中国はすごいわ。」と説明してくれました。


老子の切手
 今回は荘子の第三回目です。よく孔孟、老荘と言い、それぞれ儒教、道家の代表人物を指します。孔孟はさておき、一口に老荘と言っても、老子と荘子とではかなり違います。読んでみて一番違うと思うのは、その口ぶりです。老子は、ボソッ、・・・ボソボソッ、と喋ります。言葉が少なく、それでいて一気に核心を突いてくるので、省略された部分を補い理解していくのがとても大変です。それに対して、荘子は雄弁です。雄弁を通り越して饒舌といってもよいかもしれません。彼は友人の恵施とよく議論をします。恵施は公孫龍とともに名家として名の通った思想家、政治家で、荘子は彼の影響を少なからず受けたようです。お喋り好きの理論派、というのが私の描く荘子のイメージです。
 さて本日の諺は、「魚を得て筌(セン)を忘る」です。これは「雑篇」の「第二十六外物篇」にでてきます。[筌]は竹を編んで作った魚を捕る道具です。意味は、魚を捕ってしまえばもう魚を捕る道具は要らない、といったところです。  この後に、「兎を得て蹄(テイ)を忘る」とあり、そのあと「意を得て言を忘る」と結ばれています。[蹄]は兎を獲る道具で、兎を捕まえてしまえばもう罠は要らず、意味がわかれば言葉はもう要らないというわけです。この一連の文章から、言語や文字にとらわれる愚かさを戒める言葉として、前述の「魚を得て筌(セン)を忘る」の他、「筌蹄」、「言筌」、「忘言」、「忘筌」等が生まれました。「筌蹄」は、物を手に入れるまでの道具、目的を達すれば不用となるものということから、単に手段という意味にもなりました。
 もう一つ、同じような話を紹介しましょう。それは「外篇」「第十三天道篇」の最後の寓話、大工の輪扁(りんべん)の話です。話の概要は次の通りです。
 車大工の扁という人が斉の桓公の処で働いていました。ふと見ると、桓公が本を読んでいます。
 「何の本をお読みですか。」
 「聖人の言葉だよ。」
 「その聖人はまだ生きておいでですか。」
 「とっくに死なれたよ。」
 「では、殿様は昔の人の言葉の残りかすをお読みなのですね。」
 「残りかすとは何だ。言い分次第では容赦はせぬぞ。」
 「自分の経験から言っているのでございます。車輪を細工する時、その本当に難しい処は、確かにコツはあるのですが、ただ、言葉では言い表せません。」


老子像/た〜き〜所蔵
 内容は以上の通りで、言わんとする所は、やはり言葉の限界です。この話が元になって「古人の糟粕 」( 上述の [ 昔の人の言葉の残りかす] の部分 )という故事成語が生まれました。
 私が面白いと思うのは、雄弁、饒舌で鳴らす荘子が言葉の限界について論じていることです。見方を変えれば、雄弁、饒舌だったからこそ言葉というものを熟知し、又その限界を痛感したのでしょう。この荘子の言葉に対する不信の思想は後、禅宗にも大きな影響を与えました。禅の代表的考えである、不立文字や以心伝心などの精神的土壌は荘子によって用意されたと言っても過言ではありません。

 ここで荘子以外で書や言葉に対して警鐘を鳴らしている言葉を見ておきましょう。三例、挙げておきましょう。一つは、易経「繁辭上傳」の「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」です。これは孔子の言葉で、言いたい言葉を全部文字にはできないし、心意を正確に言葉にすることもできない、という意味です。二つ目は、孟子の「尽心章句下」にある言葉で「尽く書を信ずれば即ち書なきに如かず」です。書に書いてあることを全部信じるくらいなら、書などない方がましだ、ということでしょう。最後に真打老子の登場です。老子「第五十六章」の冒頭の言葉、「知る者は言わず、言う者は知らず」です。この言葉は荘子にも出てきます(第十三天道篇、第二十二知北遊篇;いずれも外篇)。このように真の思想家達はその思想の違いを超えて、言葉(書)の限界を知っていました。私達でも「言葉では言えない」などと言いますが、それはボキャブラリーが少ないためだったりします。

 最後に「魚を得て筌(セン)を忘る」と似ているのですが、導き出される結論が全く違う言葉を挙げておきましょう。
 「狡兎死して走狗烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(おさ)められ、敵国破れて謀臣亡ぶ」(謀叛の名によって漢の高祖に捕らえられた韓信(淮陰侯)が引用した [ かい通 ] の言葉。)。
 この言葉は史記の「越王句践世家」では、越を去った范蠡が大夫種に送った書簡の中で述べていますし、韓非子「内儲説下篇」(越王世家と同じシチュエーション)、淮南子「説林訓」にも出てきます。多分当時の諺であろうということです。

 

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