酉にまつわる故事成語(三)

第32回  酉にまつわる故事成語(三)

 順番としては次は「よくわかる西遊記」なのですが、どうも思い入れが強すぎて、中々、気に入ったものが書けません。ということで、今回も「ちゅうごくちゅうどく」です。酉にまつわる故事成語の3回目、本日最初のお題は「木鶏」です。出典は荘子で、木鶏、或いは、木鶏に似たり、という形で使います。ところで、この木鶏の読み方なのですが、「もっけい」、或いは「ぼっけい」、どちらが正しいかはよくわかりません。インターネット検索では「もっけい」の方がたくさんヒットします。それじゃ「もっけい」が正しいんじゃないの、と思われるかもしれませんが、中央公論社発行「世界の名著」第4巻の「老子・荘子」では「木鶏」に「ぼっけい」とルビがついています。同じく中央公論社「中公文庫」の「荘子」も「ぼっけい」となっています。もっとも、どちらの訳にも森三樹三郎氏が携わっていらっしゃるので、両本で読みが同じなのは当然かもしれません。ただ、「世界の名著」の方は責任編集が小川環樹氏なので、ということは、氏も「ぼっけい」という読みを支持されていらっしゃるのだと思います。どちらの読みをしても、明らかに間違い、ということはないのでしょうが、一応、権威筋に従うことにして、ここでは「ぼっけい」と読むことにしておきます。
 久しぶりに鬼谷塾を覘いてみましょう(第21回参照)
鬼谷先生:「今日は、木鶏について勉強するぞ。蘇秦や、この言葉の出典はどこだったかな。」
蘇秦:「はい、荘子外篇の中の達生篇です。」
鬼谷先生:「どういう意味じゃな。」
蘇秦:「周囲の動きに同ずることなく無心に対応することです。」
鬼谷先生:「その通りじゃ、よく勉強しておるな。では、張儀、荘子に載っている話の内容を言うてみなさい。」
張儀:「はい。昔、紀渻子(きせいし)という、王さまのために闘鶏を育てる者がおりました。10日経って王様が、
『もういいかね』
と尋ねたところ、
『いいえ。まだ、空威張りばかりしています』
と答えました。さらに10日経って
『もういいかね』
と王様が尋ねたところ
『いいえ。まだ相手の声や影に向かっていこうとします。』
さらに10日経って
『もういいだろう』
王様はそう尋ねましたが
『いいえ、まだ駄目です。まだ相手を睨みつけて意気盛んです。』
さらにもう10日経って尋ねてみたところ、
『もう十分です。他の鶏が鳴いても一向に動ずることがありません。遠くから見ているとまるで木の鶏のようです。』
大体、こういう話です。」
鬼谷先生:「その通りじゃ、これ田秋、今の張儀の話、よく覚えとくのだぞ。」
田秋:「せんせえ、それじゃオラも木鶏だぞ。」
鬼谷先生:「ほう、田秋は自分も木鶏だと申すのか。それは一体、どう言うことじゃな。」
田秋:「オラ、せんせえにどんなに叱られてもなんとも思わねえし、どんなにオッカアにぶたれても平気だぞ。こういうのを木鶏というんだろ。」
張儀:「・・・田秋、そういうのは木鶏ではなく、ただのボケというのだ。」
鬼谷先生:「うまい!座布団一枚!」
蘇秦:「先生、ここは笑点じゃありません。」
張儀:「それに先生、私たちの時代にはまだ座布団はありません。」
鬼谷先生:「・・・がっちょお〜ん。」

 相変わらずの鬼谷塾です。この木鶏の話は、列子黄帝篇にも載っています。荘子と列子にはこの木鶏だけでなく同じ話がたくさん載っており、どちらかが盗用(借用?)したのは間違いのないところです。どちらが先に書かれたのかは未だ結論が出ていないようですが、最近の研究では、列子の方が後で書かれた、という説がどうも有力なようです。ただ、後年のあるとき一気に書き上げられたというものでもなく、相当長い時間をかけて書き足されていった可能性も大いにあり(西遊記と同じだ)、話はややこしいみたいです。老子、荘子とともに道家の代表で、老子や荘子程には有名ではありませんが、私の好みは、一番列子、二番荘子、三番老子です。老子は難解でどうも胡散臭い。黙っておれば周りが勝手に解釈してくれるだろう、なんて考えている節があります。その点、荘子はよく喋り大好きです。この3人の中では荘子が一番よく出来たお方だと思います。では何故列子の方が好きなのかというと、より普通の人間に近いところ(弱い部分)があるからです。 先輩に矢の腕前を披露したところ、崖っぷちに連れて行かれここで射てみろと言われ、今度は恐怖のあまりに矢を射るどころか、地面に這い蹲り冷や汗が踵まで伝わる話など、何故か私に安心感を与えてくれるのです。
 紀渻子については、闘鶏を養う係りの人だった、以上のことはよくわかりません。苗字が紀で、〜春秋時代に斉に滅ぼされた今の山東省辺りにあった国の名前〜、名は渻で、手元の漢和辞典にも載っていない字、「消」につくるテキストもあるそうです。最後に子がついているので、きっと尊敬されていた人なのでしょう。王さまについては、列子では周の宣王となっています。周の宣王はBC823年に即位した、西周中興の王と言われている人物です。宣王のお父っつぁんの脂、のことを史記は、「王は暴虐を行い奢侈で傲慢であった。人々は王を謗る。」と書いています。どうも脂、は次第に衰えてきた周を立て直そうと、強引な手法を用いたようです。富国強兵のために、搾取の限りを尽くし、従わないものには厳罰をもって臨みました。その結果、3年後に人民の蜂起が起こり、脂、は彘(てい)というところへ亡命しました。そして14年後、脂、が彘で亡くなったのを受け、宣王が即位したのです。ちなみに(どんどん木鶏から遠ざかっていくなあ・・・)この王不在の14年間を共和と言い、現在、私たちがrepublicの訳語として使っている共和の元になっています。
 何故、この時代を共和と呼んだかには二説あります。一つは史記説で、周公と召公とが二人で政治を行ったからというものです。もちろん、この周公と召公はあの有名な二人の子孫です。二人の宰相が共に和して政治を行ったので共和と称する、というわけです。もう一つは、竹書紀年、呂氏春秋、荘子などにみえる説で、共伯和、即ち、共国の伯爵である和という人が王位を簒奪して政治を行ったというものです。「簒奪」のところは「干す」と書いてあって、「不在の王に代わって」という意味にも解釈できるそうです(簒奪ではなくて)。
 ともかく、若き宣王が即位したのですが、この王さま、最初は良かったのですが、何しろ在位46年と長かったものですから後年はおかしくなってしまいました。唐の玄宗と同じパターンです。宣王の43年、周王室復興に労のあった大臣の杜伯を殺してしまいました。杜伯の友人の左儒は、君主の過ちを明らかにし杜伯の無罪をはっきりさせるとして、あと追い自殺をしました。どうも、杜伯に落ち度はなかったようです。宣王のことを李卓吾は「長頸烏喙(ちょうけいうかい)の人」と評しています。この言葉を見て、別の「ある人」のことが頭に閃いた方、立派なちゅうごくちゅうどく症患者です。ヒントは范蠡。
 木鶏の影も形も無くなってしまいました m(_ _)m。この木鶏という言葉、日本では大横綱双葉山との繋がりで有名です。有名ですから今さらここで書くこともないのですが、有名だからこそ外すわけにもいきません。安岡正篤(まさひろ:明治31年生まれ)という東洋政治哲学・人間学の権威がいらっしゃいました。ある集まりで、木鶏の話をしたのですが、その場に双葉山も同席していました。安岡はその場のことはもう忘れてしまっていたのですが、昭和14年、ヨーロッパへの船旅の途中で、双葉山から電報を受け取りました。
 「ワレイマダモッケイタリエズ フタバヤマ」)
 この電報を読み、安岡は双葉山の連勝がストップしたことを悟ったのでした。
 双葉山の69連勝はあまりにも有名で、条件はかなり異なりますが、その後の大横綱、大鵬(45)、北の湖(32)、千代の富士(53)にして破ることが出来なかった不滅の大記録です。当時は一年の場所数も、一場所の日数も現在より少なく、この連勝が始まったのは昭和11年の1月場所の7日目でした。そして同14年1月場所の4日目に安藝ノ海に敗れ連勝が止まってしまうまで、3年間負けていなかったことになります。また、連勝が始まった頃は、まだ前頭3枚目という地位で、連勝中に横綱になったのでした(知らなかったなあ。横綱になってからの記録だと思ってた。寄り道も無駄ばかりじゃない?)

 次のお題は、鶏群の一鶴です。鶴立鶏群とも、はきだめに(の)鶴とも言います。意味は多くの凡人の中に一人傑出した人がいることで、晋書・嵆紹伝を出典とします。私は晋書は持っていませんが、世説新語にも同じ話が載っているので、紹介しましょう。
 ある人が王戎に
 「嵆紹(けいしょう)は高く優れて野性の鶴が雞の群の中にいるようだ。」
 王は
 「君はまだ彼の父親を見たことがないのだ。」

 この王戎の言葉は、彼の父親はあんなものじゃないぜ、とも、嵆紹が優れているのは父親譲りなのさ、とも解釈できます。王戎自身、竹林の七賢人の一人なのですが、彼が賞賛する「父親」というのも、実は竹林の七賢人の一人である嵆康のことなのです。
 ここで、竹林の七賢人を少しおさらいしておきましょう。前回も書きましたがこの7人とは、阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶、阮咸、向秀(しょうしゅう:「きょうしゅう」とも)、王戎(おうじゅう)を指します。世説新語の任誕篇第二十三に、「この7人はいつも竹林の下に集まり、思いきり酒を飲んで楽しんだ。だから世間では<竹林の七賢>とよんだ」、とあります。ところでこの竹林、一体どこにあったのでしょうか。私が持っている世説新語に付いている人名表の嵆康の項に、「河内の山陽[河南省修武県]に寓居して、山濤・阮籍・向秀らと竹林の遊びを行った」、とあります。また、山濤は「河内懐[河南省武陟県]の人」とあり、どちらも洛陽(西晋の首都)の東北東にあって、お隣同士といった関係の町です。ですから、彼らが清談を行った竹林というのは、この二つの町からそう遠くないところにあったと推測できます。
 劉伶と阮咸は生没年代がわかっていません。阮籍(210-263)、嵆康(223-262)、山濤(205-283)、向秀(227?-272)、王戎(234-305)。以上が生没年代です。これを見ただけではどういう時代か、ぴんと来ませんが
220 魏、建国
221 蜀、建国
222 呉、建国
263 蜀、魏によって滅亡
265 魏、晋によって滅亡
280 呉、晋によって滅亡
 この年表と彼らの生没年代を重ね合わせると、少し見えてきます。いわゆる「三国志」の真っ只中を生きたのです。後漢から禅譲された形をとって魏が起こり、翌年の蜀の建国、そのまた翌年の呉の建国、そして魏が蜀を滅ぼした2年後、今度は司馬氏によって魏が乗っ取られてしまいます(晋の建国)。その15年後、呉も晋によって滅ぼされるという、激動の時代だったのです。そういう緊張に満ちた時代を生きた七人でしたが、この間ずっと清談をしていたわけではなく、「竹林の七賢」連盟は、せいぜい魏末期の一時期だけだったようです。
 三国志といえば、中国の歴史の中でも、一番人気といってもまずは異論のないところでしょう。しかし、もし、そこで知識人、下級武将、或いは一般人として生きてみろと言われたらどうでしょうか。白眼視の故事で有名な阮籍、その父は曹操の秘書を務めていました。秘書というと曹家と極めて深い関係にあります。そして、次第に司馬家が台頭し曹家を乗っ取っていく過程では、阮家は大変微妙な位置にあったわけです。それでも何とか生き延びることが出来た阮籍は良いほうでした。嵆康の場合はそうはいきませんでした。嵆康は曹操の曾孫となる女性を妻としており、やはり曹家の繋がりは深かったのです。司馬氏の腹心に鍾会という人物がおり、嵆康が優れた人物であると聞いて会いにいったのですが、全く無視されてしまいました。鍾会はそれをずっと根に持ち、呂安という嵆康の親友が投獄され、嵆康が呂安をかばったのを機に、二人とも処刑してしまいました。処刑の命令は大将軍(司馬昭)が下したわけですが、そのように仕向けたのは鍾会でした。
「仕官しなかった。」
これが嵆康の処刑の理由です。
 この七人、嵆康以外は仕官しています。王戎と山濤は司徒(首相)、阮籍は従事中郎から歩兵校尉、阮咸は散騎侍郎・始平太守、向秀は散騎常侍、劉伶は建威参軍になっています。一人嵆康だけが仕官を徹底的に嫌い、山濤が自分の後任に嵆康を推薦した時など、山濤と絶交までしています(但し、処刑の間際に息子嵆紹に、「山濤おじさんがいるさ。お前は決して孤児ではないよ。」と言っているところを見ると、後で絶交撤回したのかも・・・)。

 王戎は竹林の七賢、或いは司徒(首相)として名を成しましたが、また、吝嗇(けちんぼ)でも有名になった人です。
こっぱ役人:「署長、ただいまあ。」
警察署長:「あほ、ただいま戻りました、言わんかい。」
こっぱ:「すんまへん。」
署長:「ほいで、どうやったんや、王戎の奴。なんや危険思想もっとるちゅう噂やが。」
こっぱ:「ああ、あれ。あれなら大丈夫ですわ。もう、金のことしか頭にありまへんわ」
署長:「ほう、そおなんか。」
こっぱ:「こないだ甥っ子の結婚式があったそうですわ。ほいで、服一着送ったそうですけど、後で請求書も送ったらしいですわ。」
署長:「ははあ。」
こっぱ:「あんなけ金持ちですやろ、金借りにくるもんも仰山おるみたいですわ。嫁はんと二人で算盤ぱちぱちやって、金勘定ばっかりやっとるそうですわ。」
署長:「へええ。」
こっぱ:「まだありまっせ。あそこんちに、えらいうまい李の木がありますのんや。王戎はそれ売ってますんやけど、種蒔かれたらかなわんゆうて、種に穴開けて売っとるらしいですわ。」
署長:「かなりのもんやな。」
こっぱ:「そうでっしゃろ。そやけどまだ極めつけの話がありまっせ。娘を嫁に出した時のことですわ。そん時、金貸したそうですわ。しばらくして、娘が里帰りしたんですけど、なんやむすーっしてて、娘、どうしたんやろ思て。ほいでよお考えたら、あ、あのときの金か、思い当たってあわてて返したら、途端に機嫌よおなったって話ですわ。口では貸したるゆうても、可愛い娘のことだっせ、あげたるのんが親ちゅうもんやおまへんか。もう、わい、あきれましたわ。あんなんでは、こ難しいことなんか考えられまへん。アレはただの奴ケチ、大坂商人もびっくりだす。」

 以上ような話が世説新語に載っています(警察署長とこっぱ役人は出てきません)。しかしこれは王戎一流のカモフラージュだったかもしれません。こんな人間では中身もたいしたことはなかろう、ほうっておけ、というわけです。

 最後に嵆紹の逸話を二つ紹介しておきましょう。
 斉王冏(けい:司馬冏)は大司馬となり、朝政を補佐することとなった。侍中であった嵆紹は冏をたずねて政務を相談した。冏は宴会を設け、葛旟(かつよ)と董艾(とうがい)たちを招いて、いっしょに時務を論じあった。旟たちは冏にいった。
「嵆侍中は音楽の名手です。殿下は演奏させなさったらよろしい。」
 かくて楽器をもちこんだが、紹はおしやって受けとらない。冏は言った。
「今日はみんなで楽しくやろうというのに、きみはなぜおしやるのか。」
 紹は言った。
「殿下は王室を補佐し、<なさることはみな手本に>というおかた。私は地位は低いとはいえ、常伯(侍中)の職におります。琴の糸をつまびき笛の音を和すること、それは楽官のしごとです。<先王の定められて礼服>をつけながら、楽人のしごとをするわけにはゆきません。いまご命令を受けたからには。辞退なぞいたしませんが、冠をぬぎ私服を着用しなければなりません。これが私の気持でございます。」
 旟たちはしぶしぶひきさがった。(世説新語)

 侍中として恵帝につき従って北方の成都王を討伐したが、官軍は敗れ、官吏たちは皆逃走した。ただ嵆紹ひとりが身をもって護衛し、けっきょく帝の側で死んだ。(正史三国志)

参考文献:
講談社文庫・陳舜臣著:中国の歴史(三)
ちくま学芸文庫・今鷹真訳:正史 三国志3
筑摩書房・世界文学大系71
 

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