酉にまつわる故事成語(五)

第34回  酉にまつわる故事成語(五)

 酉にまつわる故事成語の第5回、今回から枠を拡げて、鳥一般を調べていきたいと思います。まず雀から。
 最初に雀を選んだ理由は特にありません。何があるかなあと、まず頭に浮かんだのが「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」だったからです。出典は『史記』【陳渉世家】です。この陳渉という人、渉は字で、本名は勝といい、秦から漢への動乱の中で生きた、いわば、動乱の先駆者みたいな人です。
 本題に入る前に、司馬遷の陳渉の扱いについて、少しだけ述べたいと思います。司馬遷は陳渉を世家に入れています。凡そ世家にはどういう人たちが載っているのかというと、例えば、斉や晋、楚や魯の王(公)、漢の重鎮、異色なところでは孔子、こういう人たちのために世家を立てているのです。一応、陳渉も王にはなりました。司馬遷は漢へのさきがけとなったので、彼のために世家を作るのと述べ、タイトルにも陳「渉」世家と字を使用しています。しかし、王とはいっても他国の錚々たる王とは血筋が違いすぎますし、王であったのはわずか6ヶ月のことです。司馬遷はこの他にも項羽に本紀を立てる、そうかと思うと呉王劉濞や淮南王劉長などは列伝にいれるなど、彼独特の歴史観を持っていたようです。私は、陳渉の歴史的ポジションやその評価を考えると、列伝に入れるのが妥当だと思うのですが、どうでしょうか。
 さて、陳渉が言ったこの「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」は陳渉世家の冒頭に出てきます。陳渉が他人の田を耕す作男であった頃、あるとき、ふと手を休め、周りの仲間に
「たとえ富貴な身分になっても、お互いのことは忘れないようにしような」
「・・・気ぃ狂ただか、このたわけ。にゃにが富貴な身分になったらじゃ。そんだらアホこいとるで、肥溜め落ちるんだわ」
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」
 
「小物に大物の気持ちはわかりようもないのだなあ」という意味です。鴻鵠の鴻はおおとり、または菱食(ひしくい)という大型の水鳥です。こちらに画像があります。又鵠はくぐいとも言い、白鳥の古い言い方です。ま、どちらも大きな鳥です。
 陳渉、この言葉をその場で咄嗟に思いついたのか、どこかで読んだのか聞きかじったのか定かなことははわかりませんが、『荘子・内篇』【第一逍遥遊篇】に、よく似た話が出てきます。
 大鵬が九万里の高さに上ろうとするのを見て蝉や鳩が
「われわれは勢いよく突進しても、楡や枋(まゆみ)に届かないことがある。それなのに九万里の空にのぼろうなんて、とほうもないことだ」
とあざ笑いました。
・・・(中略)・・・
 蝉や鳩に大鵬の心を知ることがどうしてできるだろうか。
 ひょっとすると陳渉はこの話を知っていたかも知れません。荘子の内容を知っているということが、当時の文化人レベルとして、どの程度だったのかはわかりませんが、陳渉が朝から晩までひたすら肥桶を担いでいるだけの男ではなかったような気がします。
(注:信頼のおける書物には、陳渉が肥溜めに落ちたとか、肥桶を担いでいたという記述は見当たりません。人には言わないようにしましょう)

 陳渉はもう一つ名言を後世に残しました。
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」
 雀に関係ありませんが、陳渉つながりということで、紹介しておきます。これも史記の陳渉世家に載っています。兵役で魚陽(北方の町)へ行く途中、大沢郷というところで大雨に会い、足止めをくいました。大沢郷というのは四面楚歌や抜山蓋世で有名な垓下の近くにあり、魚陽まで直線距離で700km余りのところです。当時の法律では期日に間に合わなければ死刑と定められていました。そこで陳渉、一緒にいくことになっていた仲間に、
「期日に間に合わなければ死刑だ。たとえ死刑にならずとも、辺境守備では10人に6、7人は死ぬ。そもそも男たるもの、どうせ死ぬのなら大きな名をあげることだ。王侯将相に、血筋などいるものか(王侯将相いずくんぞ種あらんや)」
 と大演説をぶったのです。
 この二つの名言によって、陳渉はずっと名を残すことになりました。

 それでは雀のことわざをもう一つ、「門前雀羅」です。「門前雀羅を張る」ともいい、(落ちぶれて)誰も寄り付かなくなる、という意味です。「雀羅」とは雀を捕る網のことで、人が頻繁に往来するところには雀は降りて来ない、雀が来ないようなところには雀捕りは仕掛けない、従って雀を捕る網を張るようなところは人気(読みは「ひとけ」ですが意味は「にんき」)のないところだ、という見事な三段論法なのです。その他、少し気をつけておきたいことは、「門前」です。これは「門前仲町」とか「門前の小僧」とかでいう、「お寺」の門前という意味ではなく、土地の有力者の屋敷の門前という意味です。出典は前述の「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と同じく史記列伝で、その中の【汲・鄭列伝 第六十】に出てきます。又、漢書列伝【張馮汲鄭伝第二十】の中にも、ほとんど史記からの引用の形で載っています。ここでは史記を中心に調べていきます。
 【汲・鄭列伝 第六十】の構成は、まず汲黯(きゅう・あん)の生涯を述べ、次に鄭当時(てい・とうじ)について述べ、最後に太史公曰く、がきます。  汲黯という人は、人柄が傲慢、無作法で人を面と向かって批難しましたが、一面、侠客が好きで、清廉な身のふるまいを心がけていました。あまりに幾たびも手厳しく天子(武帝)を諌めるため、天子の(一時の)怒りを買い、何度も左遷されるのですが、地方での政治的手腕を評価され、再び中央に呼び戻されるというふうでした。
 鄭当時は、武帝時代、中央政府の大臣にまでなりました。どんな訪問者でも粗末に扱わず、優れた人を推薦することを心がけ、相手のことを慮ることを常としていました。彼の晩年、武帝の度重なる匈奴征伐により、国の財政は傾き、鄭が保証人となっていた人や彼の客分が公金を使い込んだことにより、彼も罪に問われ、庶民に落とされました。
 そしてその後の「太史公曰く」以下の部分で、下邽(かけい)の翟公(てきこう)の言葉を借りて次のように述べます。
「かつて翟公が廷尉(中央政府の大臣)となると、門客たちがその門にあふれた。しかし、免職されると、門の外に雀捕りの網をはりめぐらせるほどにさびれた。」
 ここが直接の出典部分です。このあと翟公の言葉の引用が続きます。
 もう一度翟公が廷尉になると、門客たちがかれのもとへ寄って来ようとしたので、廷尉は門に、
「生死が分かれたときにこそ、友情がどんなものであったかがわかる。貧富が分かれたときにこそ、交わりの態度がどうであるかわかる。貴賎が分かれたときにこそ、真の友情であるかどうかがわかる」 と書いた。
 司馬遷はこのあと、汲黯と鄭荘(〔荘〕は当時の字)の場合もまたそうであった、と綴り、最後に
「悲しいことである」と結んでいます。
 この列伝から、「門前雀羅」という故事成語が生まれ、だれも寄り付かない事という意味で使われるようになりました。
 私はこの故事から、門は閉ざされ、塀のしっくいは剥がれ落ち、雑草は伸び放題で人通りもない、そういう閑散とした情景を浮かべていました。それはそれで間違いはないのでしょうが、司馬遷の意図するところは、そういった静的描写ではなかったのだ、ということに最近、思い至りました。彼が描きたかったのはもっとダイナミックな、欲得づくで動く醜い人間社会と、その餌食になった汲黯や鄭荘への悲憤だったに違いありません。
 最初、通り一遍に史記を読んだ時、李稜を庇い宮刑となった司馬遷を知ってから読んだ史記、自分自身が年齢を重ねてから読んだ史記、それぞれの印象はかなり違います。ですが、最後の「悲しいことである」、このごく短い一行に本当に涙が滲むようになったのは・・・、やっぱし自分も年取ったんだなあ、と感じます。

 この門前雀羅と対になる故事成語が「門前市を成す」です。雀に関係ありませんが、これも「門前」繋がりということで、簡単に紹介しておきます。出典は『漢書』【鄭崇伝】です。実は漢書には鄭崇伝というものはなく、正確にいうと【蓋諸葛劉鄭孫毋将何伝第四十七】です。漢書はこのように何人もの人を一つの伝で括っています。そういうことは史記でもしているのですが、漢書は人数が多いため、もっと大々的に行っているのです。そのため、鄭崇を探すのも一苦労です。何しろ列伝第二十にも列伝第三十六にも列伝第四十にも鄭さんがいて、どの鄭さんが鄭崇さんかはすぐにはわからないのです。
 さて鄭崇という人は哀帝のときの人です。哀帝は生没が前26〜前1、在位が前7〜前1ですから、前漢末の皇帝です。元来、皇帝になる予定のなかった人ですが、数奇な運命の末、17歳で皇太子、20歳で即位しました。即位した当初はやる気充分だったのですが、次第に堕落していきました。心ある重臣も哀帝の周りにいることはいるのですが、取り巻き連中(所謂「臣」ではない人)が悪すぎました。その上哀帝には董賢という男の子の恋人がいました。本には「美少年」とあります。幾つまでを少年と呼ぶかはわかりませんが、哀帝は彼を大司馬に任命しました。哀帝の在位は20歳〜26歳ですから、董賢がそれより若かったことは間違いありません。漢末の大司馬は宰相以上のポストです。ま、漢のナンバー2です。別にホモの方が漢のナンバー1とナンバー2になってはいけない、というわけではありませんし、意外に皇帝の男色趣味は多いのです。例えば前漢の皇帝では、恵帝、文帝、恵帝、景帝、昭帝、そして武帝もその趣味を持っていました(それ一筋というわけではありませんが)。 ですから男色者は皇帝になる資格なし、というわけではないのですが、堕落してからの哀帝、政治を全く顧みないのです。それではいけません。
 ある日、二人で抱き合うように昼寝をしていました。哀帝が目を醒ますと董賢はまだ眠っています。哀帝は起き上がろうとしましたが、董賢が自分の袖に頭をのせていることに気づきました。哀帝はどうしたか?
 董賢の眠りを妨げないように傍にあった刀で自分の袖を切り落としたのです。この話が元になって男色のことを「断袖」というようになりました。哀帝もこの故事のおかげで後世に名を残すことができました。
 閑話休題
 鄭崇は死も恐れずに諫言した、哀帝の重臣の一人です。哀帝の断袖があまりにひどいので、鄭崇は例によって諌めましたが、全然、効果はありません。効果がないどことが、哀帝はこの口うるさい親父を忌み嫌うようになりました。そこへ諂(へつら)い組(=アンチ鄭崇派)が讒言(ざんげん)しました。
「鄭崇の家に人が集まっています。陰謀を企んでいるのかも知れませぬぞ」
 哀帝は早速取り調べました。
帝:「君の門はまるで市人(あきんど)のように賓客の往来が多いが、なんのために主上のわしをきびしくとめだてしようとするのか」
鄭:「臣の門は市(さかりば)のそれのようではありますが、臣の心は水のように清く澄んでおります。どうかとくとおしらべ願いとうぞんじます」
(注:上2行の会話部分は小竹武夫訳「漢書」のまま)
 哀帝は怒り、鄭を獄につなぎ、徹底的に取り調べ、結局鄭は獄死しました。
 この部分が「門前市を成す」の出典です。本来は「門前市の如し」なのですが、日本ではいつのまにか「成す」に変化しました。
 この故事の意味をまだ書いていませんでした。面会人が多いことから、実力者という意味になりますが、そこにはかなり難しい使用法問題があります。高い位にいるものがへつらいくるものを招き寄せることを謗(そし)る意味もあるからです。ですから、褒める意味で
「いやあ、先生のお家(うち)はまさに門前市を成すですね!」と言っても、ひょっとすると相手は、
「面と向かって、いい度胸じゃないか。この工事は他に回すことにしよう」
ということにもなりかねません。ま、目の前の人には使わぬが無難でしょう。
 

目次へ