酉にまつわる故事成語(六)

第35回  酉にまつわる故事成語(六)

 夏休みが終わったら全然書けなくなってしまったいつぞやとは大違い、今年は絶好調ですのだ。何が違うのかとつらつら考えてみるに、思い当たることが二つあります。まず、夏休み中に「聴きどころ」を書いたことです。しかも、ツェムリンスキーの《叙情交響曲》ですからね、片手間には書けません。そして9月早々のマエストロサロン。今回は沼尻センセでした。まあ、センセの喋ること喋ること^^、毎回、目標にしている木曜日のお昼にまでに全部を文字化することが出来ず、結局、1日ずれ込んでしまいました。「ワード」の文字カウンターで3万字を超えてたもんね。ま、そのおかげで、夏休みモードから通常モードにスムーズに復帰出来たのですから、ここは沼尻センセに感謝せねばなりません。
 ということで(どういうことだ?)、酉にまつわる故事成語、今回最初のお題は「烏合の衆」です。意味は「統制のとれていない群衆」で、出典は、一応、後漢書「耿弇伝」です。「一応」とは、如何にも歯切れが悪いですが、それは追々に・・・
 まずは、「耿弇伝」ですが、いきなり、読めない!
 これが難なく読めたら、あなたは古代中国のプロです。これで「こうえん(でん)」と読みます。私はプロではありませんが、調べたので読めます^^。前漢から後漢への過渡期の人物で、後漢初代皇帝になった劉秀に仕えた人です。王莽が前漢を簒奪し、劉玄が更始帝を名乗り、王莽が殺され、王郎という人物が漢の成帝の子(ウソらしい。実は占い師)ということで皇族に担がれる、といった混乱を極めた時代です。劉秀がまだ更始帝下で大司馬であった頃、耿況は子の耿弇を劉秀に仕えさせようとしました。兵を引き連れ、劉秀の下へ馳せ参じる途中、二人の部下が
「劉子輿(王郎のこと)こそ漢の正しい血筋です。この方に仕えなくてどうするのです。」
 そこで耿弇は、
「王郎なぞ、ただの賊で、劉子輿などと皇子を騙っているだけなのだ。わしが長安へ着いて精鋭部隊を突っ込ませたら、王郎軍のような烏合の衆はひとたまりもない。」
 これが、「烏合の衆」の出典です。ただ、読めばわかるように、既に「烏合の衆」の意味が周知の事実として扱われており、「この話が元になって『烏合の衆』という言葉ができました」というものではありません。ですから出典とは言っても、「烏合の衆」という言葉が文字として使われた最も早い例ということになります。また、「烏合」を後漢書で検索すると(寒泉中央研究院漢籍電子文献)4、5箇所ヒットします。このことからも、当時この言葉が「成語」として既に成り立っていたことを窺わせます。
 さて、先に「烏合の衆」の出典は「一応、後漢書」だと歯切れ悪く書きました。インターネットで調べても殆どは「後漢書」を出典としています。ところが、山口修著「故事成語ものしり豆事典」(知的生きかた文庫:三笠書房)、永井義男著「知って得する四字熟語新辞典」(PHP文庫)では、「漢書:酈食其伝」を出典に挙げています。早速本棚へ行き、漢書をあたってみました。「酈食其」は「れきいき」と読みます。確か、酈食其という人は劉邦にお説教した人ではなかったかしらん、だから列伝の最初の方に載ってるんだろうと見当をつけ、「ちくま学芸文庫」の「漢書列伝1」を調べ始めると、酈さんは「第十一」と「第十三」に載っています。まず、「第十一」の方を見るとこちらは、酈商さんで別人。そこで「第十三」の方を見ると、おお、いらっしゃいました!^^
 時は、秦から漢への過渡期で、まさに「項羽と劉邦」の時代、まだ、誰が国を統一するかわからない、否、項羽優勢の頃(大体、項羽が優勢だったからね^^)のことです。60を過ぎた酈食其が劉邦に謁見しました。劉邦は相変わらず無作法で、女に足を洗わせながら酈に会いました。
酈:「あなたは秦を助けるのか、秦を攻めるのか?」
劉:「この、たわけ儒者が!そもそも皆が秦に苦しめられたから、諸侯が連合して秦を攻めておるのだ。何を今さら寝言をほざいておるのだ!このドたわけが!」
酈:「義兵を集め無道の秦を誅しようとなさるのなら、足を投げ出したまま年長者を引見するなどもってのほかですぞ!」
 そう諌められた劉邦、足を洗うのをやめ、衣服をつくろい、上座に招き無礼を詫びたとあります。こういう率直なところが劉邦のエライところなんでしょうね?・・・ま、それなら、最初から上座に招けば良いとも思いますが・・・
 そこで酈おじさんが自説を披露し、劉邦はそれを聞いて喜び、食事をご馳走、
劉:「如何なるはかりごとが良いだろうか」
酈:「あなたが烏合の衆を立ち上がらせ、散兵をかき集めてもその数は一万人もいません。それで秦に攻め入るなど『虎口の中を手で探る』ようなもの。陳留の地は天下の要衝、また貯蔵米もたくさんあります。そこへ私を使者として送ってください。県令を降伏させたいと存じます。」以下、略
 このように、既に酈先生が「烏合の衆」を使っていたのです。出典というなら、早い時代のもので代表すべきだと思うのですが、何故一般的に後漢書を出典とするのでしょうか?何か訳があるのかしらん、わからんし。。。久しぶりにあの先生にお聞きしてみようかなあ。


 朝、メールを出して夕方仕事から帰ってきたら、もう、お返事が来ていました。ううむ、このレスポンスの素早さにはいつもながら感服します。な、何と、
「漢書には『烏合の衆』という使用はありません。」
というのが先生のお答えでした!
・・・それじゃあ、小竹武夫氏の「漢書」は間違いなの???
 こういうことになると異常な興奮をする田秋せんせ、早速、原文を確かめることにしました。
 な、な、何と!該当部分の漢文は、「瓦合之卒」となっていました。顔師古の注に「瓦合,謂如破瓦之相合,雖曰聚合而不齊同」とあります。よくわかりませんが、割れた瓦が寄り集まっても同じではない・・・みたいな意味に見えますが、よくわかりません。小竹武夫氏は、意訳したのだと思います(私の推測。間違っていたらごめんなさい)。
 黄虎洞先生からのメールには、そのあと、
「『烏合の衆』の出典はやはり、後漢書『耿弇伝』ということになるでしょう」
とありました。感謝!感謝!
 でも、そうなると先に挙げた二つの本はどうして・・・って、あんまり、詮索するのはやめておこう^^。。。
 さてここで、ちょっとした問題があります。それは、
 烏は果たして「烏合の衆」か!?
 最近の説では烏は頭が良いらしいです。テレビなどの烏特集で(特集が組まれるほどなのです!)、胡桃を車で轢いてもらって殻をくだくカラスをみたことがあります。斯く言う私も、かつて烏に頭を足蹴りされたことがあります。足蹴りすることが知能の高低とどう関係するかは難しいところですが、少なくとも私の頭を足蹴りした動物は他にいません。それで烏の知能について調べてみると面白いことがわかりました。
 「脳化指数」というものがあります。簡単に言うと、体に対して脳が占める割合を表す数字です。単純に、脳が大きければ(重ければ)賢いだろうという考え方です。宇都宮大学農学部の杉田昭栄教授が研究した結果、カラスの脳化指数は0.16だそうです。ちなみに他の生き物の脳化指数はというと、人:0.86、イヌ:0.14、ネコ:0.12なので、ま、イヌやネコより賢い(?)ということになります(勿論、それほど単純ではないのですが)。ちなみに記憶持続時間が3歩と言われている(?)ニワトリは0.03だそうです。
 ですから単体としては優れているといえます。ただ、単体が優れているからといってそれが団体になった場合、必ずしも優れているとは言えない、ということは人間社会でも言えることです。先ほど触れた「耿弇伝」の中の王莽を例に取ってみるとよくわかります。外観を飾ることに腐心した王莽は、軍に兵法63家を集めました。王莽にしてみれば、
「どうだ、わしの軍隊にはあらゆる兵家が集まっているのだ!恐れ入ったか!!」
となるのですが、実際は意見がまとまらず、収拾がつかなくなったそうです。これなどエリート集団の「烏合の衆」化の最たるものでしょう。
 ですから、今のところ、カラスの集団が烏合の衆と言えるかどうかはわかりませんが、胡桃を車に轢いてもらう作業を例にとるなら、もしこれを分担作業で行っていたとすれば、これはもう「烏合の衆」とは言えないと思います。
 人から「オマエらは烏合の衆だ」と言われれば、大概の人はムカァッときます。「オレはそんな馬鹿じゃないぞ!」って。しかし、ちょっと待ってください。「烏合の衆」には元々、アホとかマヌケとかいう意味はないのです。そうではなくて、「統制が取れていない(人の集団)」というのが本来の意味なのです。これは注意すべきことで、自分は人より頭がいいとか、オレは人と論戦しても負けない自信がある、と思っている人ほど、実は統制を乱す要因になり得るかもしれないのです。例えば100人の人が「5」の力でてんでバラバラの方向に向かおうとするのと、「1」の力の人100人が、同じ方向に進もうとするのとでは、この集団、一体、どちらが力があると言えるでしょうか。

 さて、烏の故事成語をもうひとつ。「烏有に帰す」を調べてみたいと思います。「何もなくなってしまう」という意味で、火事で財産などが全部燃えてしなくなってしまう時に用いるのが正しい作法のようです。洪水とか盗難で無くなったときにはあまり用いないようです。これは想像ですが、火事の焼け跡が真っ黒なので、そこからの想像があるのかもしれません。「灰燼に帰す」と同じ用法ですね。
 さて、「烏有に帰す」という言葉そのままが古典に載っているわけではなく(勿論、「烏有に帰す」と最初に記した文献はあるにしても)、「烏有先生」というのが元々の言葉です。お馴染み故事成語の宝庫「史記」の「司馬相如列伝第五十七」が出所となります。この司馬相如という人は、前漢の景帝、武帝に仕え人なので、漢書にも「司馬相如伝」として掲載されています。しかも「伝」が上・下二巻に分かれています。例えば匈奴伝や外戚伝など一つの項目で複数の人を扱う伝ならいざ知らず、一人で巻を二つに分けるのは異例の扱いです。ただ上には上があるもので、王莽サンはさらにその上をいく「上・中・下」三巻に分かれています。ま、良くも悪くも「王朝」の簒奪者(及び新王朝の創始者)ですからね。
 さて、この司馬相如という人、当代一の「賦」の名人でした。「賦」というのは、え〜と、漢文の文体の一種で、対句や韻を踏まえます。ん〜と、これじゃ、詩とどこが違うのだ?とつっこまれそうですな。この辺のことは正直よくわらんですが、詩より、もっと自由な感じがします。小竹漢書の注には「叙事的」と説明してあります。楚辞(屈原、宋玉など)の流れだそうです。
 それで、彼が作った賦に「天子游猟の賦」というのがあります。これにはエピソードがあって、司馬相如はこの賦の前に「子虚の賦」というのを作っていて、それが天子(武帝)の目に止まり、
武帝:「すんばらしい!この人と同じ時代に生きたかった!」(秦王、後の始皇帝も韓非子の書を見て同じようなことを言っている)
臣:「生きてますよ」
武帝:「なに、すぐ連れて来い!」
相如:「あれは、諸侯に事柄についての作、天子さまには別のものを作らせてくださいませ」
武帝:「筆と木簡を遣わす。はよ作らりゃあせ」
 ということで作られたのが、「天子游猟の賦」です。ここのところがよくわからないのですが、この二つは全くの別物ではなく、「天子游猟の賦」は「子虚の賦」を改作したものらしいです。
 さて「天子游猟の賦」には、三人の人物が登場します。まず、子虚。この子(=人)虚(なし)、という意味で、楚の国を褒める役をします。子虚は楚の国からの使者として斉を訪れます。斉の王は子虚を狩に招きます。これは接待の意味もありますが、実は、斉の実力を誇示するためでもありました。その後子虚は、今回のメインキャラの烏有先生を訪ねます。「烏(なんぞ)このこと有らんや(何もない)」というのが名前の意味です。するとそこには既に無是公という人がいます。無是公というのは「是の人亡(な)し」という意味です。烏有先生は、斉のために楚を詰(なじ)る役目を担い、無是公は天子のありようを明らかにしていきます。結局三人とも架空の人というシチュエーションで話しが進んでいくわけですが、この烏有先生だけが後世で有名になりました。
 そういうわけで、「烏有」の「烏」には鳥のカラスという意味はありません。「いずくんぞ」とか「なんぞ」と読む副詞で反語形によって文の意味を強める役割を果たします。それでは何故、「烏」という言葉にそういう役目が発生したのか?随分調べましたが、わかりませんでした。田舎にある「大字典」にもその理由は載っていませんでした。こういう用例は、烏の他に、何、奚、寧、曷、胡、害、安、焉などがあり、微妙にニュアンスが違うようです(昔習った漢文を思い出す・・・)。ひとつ言えることは、既に史記で使われているのですから、かなり古くからの用法ということになります。

 ところで、烏という字、鳥より1画少ないですね(横棒)。これは、全体が黒いので遠くから見ると目がわからないから、こうなったのだそうです。要するに、省かれた横棒は、「鳥」という象形文字の目に相当する部分なのです。知ってました?
 

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