第36回  酉にまつわる故事成語(七)


 このところチョー忙しくて《ちゅうごくちゅうどく》を書く時間がありませんでした。先日、オール・プロコフィエフ・プログラムの定期演奏会が終わり、ようやく一息、と言ったところです。
 今回で酉にまつわる故事成語も第7回を迎えます。来年からは「犬にまつわる〜」を書こうと思っていたのですが、少しずれ込む見込みです。それに、「牛にまつわる〜」も「大地の歌」で中断してそのままになっていることに最近気が付きました。これもなんとかせんとなあと思っております。
 それでは早速、今日のお題です。本日のお題は「沈魚落雁」です。
 出典は荘子内篇の斉物論篇、本来ならば、荘子のところで取り上げるべきものだったのですが、何故か落としてしまいました。
 荘子はこの斉物論篇で彼の思想の生命線ともいえる「万物斉同」、〜絶対無差別〜の考えを展開しています。そしてこの沈魚落雁の話は、その考えを最もわかりやすく述べているところなのですが、後世、「万物斉同」はどこへやら、なんと「美人」の代名詞として使われるようになってしまいました。一体どうしてそうなってしまったのでしょう。
 まずは、荘子の該当部分を見てみましょう。
 齧缺(げつけつ)さんがそのセンセの王倪(おうげい)はんに聞かはりましたんや。
 「せんせ、みんながそりゃもっともや、というようなこと、知ってはります?」
 「知らんだぎゃあ」
 「ほんならせんせ、わて、知らへん、ということは知ってはりますの?」
 「そんな訳のわからんこと、知らんがね」
 「ほんなら、なんにも知らはらんの?」
 「なんもかも、わからんだわ。そやけどせっかくだし、一遍ゆうてみようがね。ほんなん知っとるわ、いうことが実はなんもわかっとらんことあるし、そんなことわかるか、思とることは、存外知っとることもあるだに。
 おみゃあさんに聞いてみるけど、人さまは湿気の多いとこで寝起きすると病気になってまうけども、鰌(どじょう)は平気だがね。それに人さまは高いとこはこわーてかんけど、猿は大丈夫だわ。人間さま、鰌、猿、このうち、本当の家を知っとるのは誰やね。
 人さまは家畜の肉食うし、鹿は草食べる、百足は蛇をこりゃうみゃーでかんわって食う、鳶や烏は鼠を取って、でらうまいがねって食わっしゃるけど、こん中で本当の味を知っとんのは、誰ね。
 オスザルはメスザルをおっかける、オス鹿はメス鹿がどえりゃあきれいや言う、鰌は鰌がええと言う。
 ところで、毛嬙(もうしょう)や麗姫(りき)は人さまからみると、どえりゃー美人だぎゃあ、そやけど、魚がその姿見たら、こわなって水深〜潜ってまうし、鳥はびっくらこいて空たこー飛び去るだわ。鹿も逃げてまう。
 わしから見ると、世間の仁義やケジメ、良(え)え悪いの目安なんかなんもわからんでかんわ。」

註:
齧缺、王倪:応帝王篇にも登場。多分、荘子の創作人物。
毛嬙、麗姫:毛嬙については古代の美人ぐらいしかわかりません。麗姫は麗の国の姫の意。晋の献公がBC672年、この国を攻め、麗姫とその妹を手に入れどちらも寵愛しました(ええなあ・・・)。後、麗姫は男子を産み、自分の子を太子にしたいと画策し、晋のお家騒動を起こします。管子に「天下の美人」との記述ありますが、時代的に管子の方が先なので、管子に後世の人の手が入っている証拠となっています。

 この王倪の言葉は、何が良いのかということは決められないことなのだ、一旦、人間だの、動物だのという枠を取り外してしまえば、ことの善悪などという概念そのものに意味が無くなってしまうのだ、ということを言っているわけです。この言葉の後ろの方、 「ところで、毛嬙や麗姫〜」の少し後、
 「魚がその姿見たら、こわなって水深〜潜ってまうし、鳥はびっくらこいて空たこー飛び去るだわ。」 
 この部分が、「沈魚落雁」という成語として残りました。ですから、この意味はあくまでも、判断とは相対的なものであり、絶対的には無意味なものであるという、大変哲学的で高尚なことを言っているわけです。 ところが後の人はそんなコムツカシイことよりも、毛嬙や麗姫が絶世の美人であるということの方が、うれしいわけです。それで、魚が潜ったり、鳥が空高く飛んだりするのは、彼女たちの「美しさ」にびっくりしての行動なのだ、ということにしてしまいました。なお、原文では「雁」ではなくただ「鳥」なのですが、いつどうして雁になってしまったのかはよくわかりません。
 中国では古くから雁に意味づけをしていました。例えば、結納のとき男性は相手の女性に生きた雁を贈りました。雁は渡り鳥なので、季節に従って行動します。これを女性の婚期の適正であることの表れとします。太陽に従うので(夜行性の鳥を除き殆どがそうですが)、これを妻が夫に従うことの表れとし、列をなして飛ぶところを長女の列に従うことの表れとしました。これを雁行と言います、隊列は一列型、V字型などがあり、鵜や鷺も雁行するようです。また雁は一夫一婦制を守るそうです。この「一夫一婦制を守る」というのは、一夫多妻制とか一婦多夫制とかではない、という意味ではなくて、再婚しないということです。これは本当のことだそうで、白鳥や雁はその掟を守るそうです。それに反して鴨は毎年相手を変えるわ、ひどいのになると、同じ年に相手を変えるヤツもいるそうです。あなたは雁型ですか、鴨型ですか?え、願望と現実は違うって・・・
 閑話休題
 昔の中国人はそういうことを観察してたんですね。それを「節」だとしましたが、意味は節操があるということです。再婚すると、もう、節操がないということなんですかね。思うに、これは昔の中国の男からみた、女はこうあるべきだ論だと思います。中国の男尊女卑思想は非常に強く、歴史書なども、女性の名前は殆ど出てきません。ただ「女」とか、例えば劉邦夫人など、「呂媼」などとなっていて、呂は姓、全体で「呂ばあさん」と言う意味になります。史記では本紀を立てられた呂后ですが、それでも名前はわからないのです。
 ええと、何の話でしたかね。そうそう、雁の話しでした。雁が急降下するとき、身体を真下に向けて、ゆらゆら、くるくると、まるで操縦不能になったグライダーのような降り方をするそうで、これを落雁というのだそうです。先日、新潟の瓢湖へ白鳥を見に行きましたが、白鳥はそんな降り方はしていませんでした。瓢湖へ白鳥を見に行こう、とする皆さん、早朝とか夕方に行かねばなんねえだよ。昼間は餌取りにどこぞへ行っとるでな。看板に現在4000何羽とか出てましたが、私は昼に行ったので、そんなにはいませんでした。朝、一斉に飛び立つところなどは壮観であるとのことです。
 お菓子に「落雁」というのがありますね。干し菓子で、なんか粉を固めたみたいなの。あれは、元の時代の「哈耳尾(ハルウェー)」という回教徒の食べ物が原型で、明のときに軟落甘(なんらくかん)というお菓子になって、それが日本に伝わり、転じたものだそうです。また当時それに黒ゴマがまぶしてあり、それが雁を連想させるところから「落雁」となったとインターネットの記事には出ています。ここがよくわかります。最近、食べてませんが、子供のころはそうおいしいとは思わなかったなあ。祖母はありがたがってたけど。

 まあ、なんやかんやあって「鳥」が「飛び去る」が「雁」が「落ちる」に変わってしまいました。あまりの美女を目にした雁は目が眩み、ゆらゆらくるくる状態で落下するのだと、そういう主張です。同様の意味に「閉月羞花」というのがあります。またこの二つを一つにして「沈魚落雁閉月羞花」という場合もあります。この「閉月羞花」は、あの美しい月や花でも、自分が見劣りして恥かしくなってしまうほどの美人ということで、「閉月」と「羞花」に分けることができ、それぞれに出典があります。これを宿題として出すことにしましょう(って、誰が生徒なんや?)。
 今日は、雁の話になってしまいましたが、ついでに「雁書」についてお話しておきましょう。意味は「手紙」のことで、出典は漢書「蘇武伝」です。蘇武は武帝のときの人で、当時の最大外交問題、対匈奴政策の一環として使者として匈奴へ赴きました。ところが、副使の張勝が匈奴の内紛問題に関与したため、結果、蘇武は捕虜となってしまいました。蘇武は自害を図りましたが失敗、医師の手当てで一命を取り留めました。単于(匈奴の王さまの呼称)は蘇武の潔さに惚れこみ、自分の配下になるように強く説得しましたが、頑と応じません。業を煮やした単于は投獄し食べ物も与えませんでしたが、蘇武は毛織物をかじり、雪を食べて飢えをしのぎました。数日たっても蘇武が死なないので、北海(バイカル湖らしい)へ雄羊とともに移し、「この羊が子を産んだら漢へ返してやろう」と言い残して立ち去りました(シベリア抑留ですな)。
 年月が過ぎ、武帝の次の皇帝、昭帝のとき、匈奴へ使者を遣わし蘇武の返還要求を行いましたが、単于(蘇武を捕らえた単于の次の単于)は、「彼はもう死んだ」と偽りました。ところが、そこに蘇武の使節の一員として匈奴へ来て捕らえられ降伏し、そのまま匈奴に仕えていた常恵という人がいて、本当は蘇武が生きていることを使者に知らせました。
 そこで使者は、
 「わてらの殿さんが射止めた雁の足に蘇武からの手紙が結ばれてましたんや。あんさん、これをどう説明しやはりますんや。返答しだいでは承知しまへんでえ。」
 この話は、使者の作り話でしたが、単于も「そんなこと、信じられんわ。」と思ったかどうかはわかりませんが、蘇武の忠節の話しも聞いていたので、
 「死んだ言うのはうそなんだわ。ウソこいて、ごめんしてちょーだい。」
 と蘇武の帰国を許しました。捕らわれてから19年後のことでした。
 というのが、蘇武伝に載っている話です。この使者のとっさの作り話、実際、蘇武は手紙を雁の足に結ばなかったのでしょうが、この逸話から手紙のことを雁書というようになりました。なお蘇武は匈奴の地で一度李陵に会っています。司馬遷の宮刑の原因となったあの李陵です。李陵は一族郎党皆殺しにされてから、翻意し、匈奴に仕えていました。会ったときに李陵は、
 「人の一生ははかないものだ。匈奴に降った方がよくはないか」
 と説得しましたが、蘇武は聞き入れませんでした。この話だけを読めば、蘇武、アンタはエライ!李陵、この裏切り者めが!となってしまいますが、決してそうではありません。どちらもギリギリの人生を歩んだのだと思います。  

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