馬にまつわる故事(一)

第十回  馬にまつわる故事成語 (一)


 今年は午年です。それで今回から馬にまつわることわざを調べてみることにします。
 今は干支について詳しく論じませんが、元々、「午」には「馬」の意味はありませんでした。これは午に限ったことではなく、子も丑も、ネズミとかウシという意味を持っていませんでした(辰、巳を除く。この二字はそれぞれ、タツ、ヘビの意味があります)。午は元、「杵(きね)」で、後世、「午」を使うようになりました。午の音が伍に近いので、伍=なかま=群居する動物=馬という連想から「馬」になりました。十二支に動物を当てはめたのは後世のことで、字の方が先なのです。

   最初は、「伯楽」です。
意味は、「逸材を見つけ出す人」で、元々は馬の鑑定の名人のことです。ところが、そのまた元々があって、伯楽とは星の名前のことで、天馬をつかさどるところから、馬の鑑定名人という意味になりました。最初に伯楽と呼ばれた人は、孫陽という、秦の穆公(在位BC659〜621)の時代の人です(ということになっています。ここは、疑わず、実在の人と思っておきましょう。)。ちなみにこれが訛って、馬の仲買人のことを「ばくろう」というようになりました。

 ことわざにはなっていませんが、列子/説符第八に伯楽を超える名人の話があります。秦の穆公と伯楽との対話です。
穆公  「伯楽はん、あんたもそろそろ年やんか。まだ跡継ぎはおらへんの?(秦は関中より西にあるので、関西弁を使っていました。)」
伯楽  「わての子供は皆不出来で、並みの上くらいの馬ならわかりますやろけど、天下の名馬ともなると見分けなんかとてもとてもできしまへん。そやけどええぐあいに、わてんとこに九方皐(きゅうほうこう)という男がおりますんや。馬の目利きでは、わてとええ勝負でっせえ。」
 そこで穆公は九方皐を召しだし、馬を探させました。三ヶ月たつと九方皐は戻ってきました。
九方皐 「めっけてきたがや、でごぜえます。」
穆公 「ああ、ご苦労さんやったなあ、それでどんな馬かいな?」
九方皐 「牝で黄色の馬だがや、でごぜえます」。
 そこで穆公は人をやって馬を見させました。ところがそこにいたのは、雄で黒い馬だったのです。
穆公 「こらあ、伯楽っ!あんさん、あんな抜け作、よお薦めとくれましたな。オスメスどころか毛色もようわからへんウツケやったで!」
伯楽 「マジっすかあ。ああ、もう、わての及ぶところやおまへんな。」
穆公 「どうゆうことやねん。」
伯楽 「あん人はホンマのとこだけ見て、上っ面なんか見いしまへん。見やなあかんとこだけ見て、見やんでもええもんには目もくれへんのと違いまっか。」
 果たせるかな、やってきた馬は、天下の名馬だったのです。

注:穆公が関西弁を使っていたとは、どこにも書いてないので、人には言わないようにしましょう。

真実を知りたい方は→【岩波文庫・列子(下)・小林勝人訳注を参考にしました】

 この穆公というのは、一時、重耳(後の晋の文公)を預かったこともある、あの穆公です。ということは、伯楽は穆公より年上のようですから、大体、斉の桓公と同時代の人ということになります。
 この秦の穆公のご先祖様の傍系に造父(ぞうほ)という人がいます。この造父という人もよく馬を御し、周の穆王に仕えて寵幸されています。史記/周本紀によると、穆王は50歳で即位し、即位55年で崩じています。すごい長寿ですね。この穆王は名馬四頭(八頭という説が有力)を得、西方に巡狩し、帰るのを忘れていました。ある国の王が乱を起こしたので、造父は穆王の車を御し、一日に千里、長駆して周に帰り乱を治めました。造父は趙城に封じられ、以後、一族は趙氏を名乗ることになりました。後々、晋が魏、趙、韓に分かれたときの趙の祖先にあたります。
 だいぶ話がそれましたが、伯楽と穆公との話は先にも書きましたように列子に載っています。列子は、道家に属しますが、同じ道家の荘子にも伯楽の話があり、こちらの方は、だいぶ、趣が異なります。それついでにこちらの方も見ておきましょう。外篇/馬蹄篇第九に載っている話です。
 「馬の蹄は元々、霜や雪をふんでもよいようにできている。身体の毛は風や寒さをふせぐようにできている。そこに伯楽という男が現れ、鉄を焼いて蹄にあて、馬の毛をそり、焼印をおし、手綱を首にまきつけ、飼馬桶や、すのこの床をつらねて飼うようになってからは、死ぬ馬が二、三割にも達するようになった。 さらに調教に調教を重ね、くつわで自由を奪い、むちでおどし(うっ、なんか違う本で同じような表現があったゾ)、死ぬ馬が半数を超えるようになった。」
 こう述べた上で、「天下をよく治めるものは、決してこのようなやりかたはしないはずである。人民には一定の本性というものがあり、その自然の本性をそのままに保ち、人為によって片寄りをつくらないのだ」、と述べています。

【中公文庫・荘子・外篇・森三樹三郎訳注を参考にしました】

私は、この荘子の話の方が、道家らしくて好きです。

 閑話休題。
 「伯楽」の応用編で、「伯楽の一顧」というのがあります。これは次のような話に基づいています。
 蘇代(蘇秦の弟)は自分を売り込むため、淳宇こん(淳宇が姓)に次のように相談を持ちかけました。
 「駿馬を売るものがいました。三日市場で立っていても売れません。そこで伯楽に、『馬の周りを一周して、立ち去るときに一回振り向いてください。なんとかお礼はします』とお願いしました。伯楽が頼まれたとおりにすると、さあ、『伯楽が振り向いたのだからきっとすばらしい馬に違いない』と、たちまち、十倍の値で売れました。さて、王様に会おうにも私には後押しがおりません。あなたが伯楽となり私を駿馬としていただけないでしょうか。白璧一対、黄金千鎰差し上げます。」
 淳宇こんは引き受け、王にまみえさせ、王は蘇代を大変気に入りました。
 出典は戦国策/燕策です。この話が元になって、「箔をつけてもらうということ」を、「伯楽の一顧」と言うようになりました。
 もうひとつ応用編。「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」
 これは、南宋に編まれた「文章軌範」に載っている言葉です。これは逸材を見出す眼力の重要性を説いた言葉で、同じく文章軌範に「世に伯楽あり、然る後、千里の馬あり」と言う言葉もあります。

 本日は、ここまでです。次回も「馬にまつわる故事成語」の予定です。

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