馬にまつわる故事(四)

第十三回  馬にまつわる故事成語 (四)


 馬にまつわる故事成語の4回目、今回は「馬鹿」を調べてみます。
 いつも思うことなのですが、初めて、「馬鹿」という漢字を習った(又は、見た)とき、どうしてこんな漢字を書くのだろうと、何故疑問に思わなかったのか不思議でなりません。「油断」にしてもそうです。この漢字をどうひねくりまわしても、「相手を過小評価して、気が緩んでしまうこと」という意味は出てきません。まあ、あの頃(小学校〜中学校)は、そういうことに気を回す時間も余裕もなかったのでしょうね
 そうか、あの勉強と宿題の山というのは、生徒の面倒な質問を阻止するための教員組合の高等戦術だったのだな・・・。
 さて、この「馬鹿」、一応の定説はありますが、未だ決定稿ではありません。諸説あり、その中でも尤もらしい説が、二つ、三つあります。まず、「軽度ちゅうごくちゅうどく」の人が陥りやすい説から。
 「史記:秦始皇本紀」(筑摩書房・ちくま学芸文庫・史記T[本紀]ならばP174)に宦官趙高(ちょうこう)と二世皇帝胡亥(こがい)との間で交わされた会話が載っています。趙高というのは始皇帝に仕えていた宦官で、権力欲の塊のような人物です。一方、胡亥は二世皇帝で凡庸でまだ若く、しかも、趙高は胡亥の教師でもあったので、胡亥は趙高に頭があがりませんでした。ある日趙高は、鹿を連れてきて「馬を献上いたします」と言いました。胡亥は鹿だと言いましたが(当たり前)、ある者は趙高の権力を怖れ、「馬でございます」と言い、またある者は「鹿でございます」と言いました。そして「鹿でございます」と言った者は、後々、無実の罪に落とされ、悉くその命を断たれてしまいました。初めてこれを読んだ私は、「ああ、そうか。馬鹿というのはここからきたんだな。」と納得したものです。
 ここで、そもそも、なぜこのようなことが起こったのか、みておきましょう。
 始皇帝の長男は扶蘇(ふそ)といって、始皇帝に諫言するほどの人物でしたが、プライドの高い始皇帝は諌められた腹いせに扶蘇を僻地へ左遷してしまいました。一方、出来の悪い子ほど可愛いの例えの通り、始皇帝はこの暗愚な胡亥を殊のほか可愛がったようです。
 さて、始皇帝はその存命中に何度も巡幸を行いました。亡くなったときも何度目かの巡幸の途中でした。そしてその巡幸には、趙高、胡亥、宰相の李斯が付き添っていました。当時、始皇帝は、異常とも言える執念で不老不死の薬(又は方法)を探しており、この巡幸も不老不死を求めてのものと言っても過言ではありません。しかし、当然のことながらそんなものは見つかりませんでした。そして旅行中重い病にかかり、自分の死を悟るに及んで遂に遺書を書くことにしました。その遺書の中で、自分の跡継ぎには、左遷こそしましたが、胡亥ではなく扶蘇を指名しました。その辺りはさすが始皇帝、人物を見抜く眼力が愛情によって曇るということはありませんでした。
 もしもこの遺書が正しく執行され扶蘇が二世皇帝になっていたなら、こんなにあっけなく秦が滅亡することはなかったでしょう。
 そうです。この遺書は正しく執行されませんでした。改竄が行われたのです。首謀者は趙高です。最初、胡亥と李斯に話を持ちかけたとき、そのあまりにも大それた企みに二人はしり込みをしました。しかし、そんなことで諦める趙高ではありません。あきらめるどころか、一度打ち明けたら、もう、自分の陰謀に引っ張り込むしか、趙高の生きる道はなかったのです。
 「もし扶蘇様が二世皇帝になられたら、私達はどうなるとお思いですか?」
 これが殺し文句となりました。扶蘇が皇帝になったときの、自分の境遇がどうなるかは、胡亥も李斯もすぐに理解しました。
 玉璽も遺書も趙高の手の中にありました。巡幸中の死を知るものは、胡亥、趙高、李斯、そして身の回りの世話をしていた数人の宦官だけでした。舞台はすべて整い、始皇帝の遺書は破棄され、代わりに、李斯が沙丘で遺詔を受けたことにし、胡亥を太子としました。扶蘇には死を賜う詔書が送りつけられました。扶蘇の配下の将軍蒙恬(もうてん)は、その詔書に疑いを持ち、強く死を思いとどまらせようとしましたが、扶蘇は結局、自殺してしまいました。
 こうして胡亥が二世皇帝になりました。しかしその陰謀に加担した3人の関係は微妙でした。まず、胡亥は趙高サイドでした。これは趙高が自分の教師であった上に暗愚であった為もあります。李斯は胡亥サイドでした。胡亥サイドというよりは、皇帝サイドと言った方が適当です。宰相として皇帝を補佐し国を治めるつもりでした。そして趙高はどうだったかというと、自分サイドだったのです。彼には国を治める能力もなければ、治める気もありませんでした。ただひらすら、自分の栄華、権力を求め、保身を考えるのみでした。
 しばらく経ち、李斯が二世に自分を非難したことを耳にした趙高は、李斯に対して計略を用い、二世に不興を買わせ、罪に陥れ、死罪に処してしまいました。その後、二世は趙高を宰相に任命し、全ての裁断を彼に任せたのでした。その頃、秦は既に末期症状を呈しており、いたるところで反乱、暴動が起きはじめていました。今や、乱世の責任を取るべきは趙高でした。そこで彼は何を考えたか?
 謀反を起こし、二世を殺す、そして劉邦と手を結ぶ・・・。
 しかし、どのくらいの人間が自分について来るか、まだ、不安もありました。そこで鹿を献上してまわりの反応を試してみたのです。

 ああ、やっと辿りつきました。一時はどうなるかと思いましたが、これが、鹿を献上したいきさつです。
 初めて史記を読んだとき、「ああ、これが馬鹿の故事か」と思ったのですが、この「鹿を指して馬と為す」という故事は、「威圧をもってまちがいを押し付ける」の意味に使われ、所謂、「愚か」という意味の「馬鹿」の出典ではないとされています。
 諸橋徹次氏によれば
 「日本人の冗談でしょうね。」(十二支物語・馬の項)
 又、陳舜臣氏は
 「中国では日本でいう意味の『馬鹿』ということばは、かつて使われたことがない。」(弥縫録・馬鹿の項)
 と述べられています。
 さらに「鹿」を「カ」と読むのは日本だけであり、中国では「ロク」と読みます。ですから、中国の読みにはない字を含む「馬鹿」は、日本で作られた当て字であろう、と結論付けられています。
 「鹿」を辞書(新言海)で調べてみると
 「しか」は「牡鹿」で「夫鹿(セカ)の転。女鹿(メカ)に対する。」とあります。鹿はオスなんですね。「か」で引いてみると「鹿」があり、「鹿(しか)の本名。」とあります。元々の読みが「カ」なのです。「カ」は訓読みで、鹿の鳴き声からきているようです。馬(バ)は音読みですから、馬鹿(ばか)は所謂、重箱読みだったのです。知らなかったなあ。

 次に、現在、最有力とされている説を見ていくことにします。それはサンスクリット語(古代インド語の一つ。梵語)のmoha(愚か者)、又はmahallaka(無知)が元になっているという説です。仏教がらみで日本へ輸入され、僧侶の隠語として使われていたようです。勿論、中国経由で入ったわけで、中国ではmohaの音に「莫迦」が当てられました。日本に入って、さらに「馬鹿」の字が当てられたというわけです。ただし、すぐに「馬鹿」が当てられたわけではなく、最初は、「慕何」だったようです。ちなみにmahallakaは、「摩訶羅」という字が当てられました。
 次に、暗号型の解釈を紹介しましょう。「馬鹿」の「馬」は蘇我馬子のこと、「鹿」は蘇我入鹿を指すというものです。意味は勿論、愚かということで、天皇側の手によって埋め込まれた暗号だとする説です。この手の暗号型解釈は、聖書、ノストラダムスの大予言、万葉集などたくさんあり、それはそれなりに面白いのですが、どうしても後付けの感が否めません。
 次に破家説を紹介します。「破家」は破産と同じ意味で、家を潰した人を「破家もの」と言い、これが「馬鹿」となったという説です。
 馬蝦(ばか)説というのもあります。既に取り上げた伯楽にまつわる話です。あるとき、伯楽が息子に名馬を求めさせました。名馬とは、「額が広くて目が飛び出していて、脚は高らかにピョンと飛ぶものだ。」と教えたところ、息子は蝦蟇(ヒキガエル)を取ってきたのです。あまりにも馬蝦らしいので伯楽も苦笑した、という話です(注:諸橋徹次著「十二支物語」から引用しました)。

 いくつかの説を紹介しましたが、現在のところ、moha説が主流です。ところで、私はというと、「鹿を指して馬と為す」由来説を支持しています。史記が初めて日本に輸入されたのがいつだったのかは定かではありませんが、多分、遣隋使、遣唐使によってたくさんもたらされたのではないかと思います。そして、政治、国家体制の手本とする中国を知るため、知識階級、僧侶といった人達が競って読んだことでしょう。そしてこの故事を読んで、「なんと胡亥は愚かなんだろう、馬と鹿の区別もつかないとは!」と思ったのではないでしょうか(事実、胡亥は、周りの者に馬かどうか問い直しています)。私は、馬鹿という言葉は、中国の故事を元にして、日本で生まれたのではないかと考えています。そうすれば、中国では「馬鹿」を「愚か」の意味では使われていない点、「鹿」を「カ」と読まないという点もクリアできます。それは、例えばベートーベンの「運命」を例に取ると、「運命はかく扉を叩く」とベートーベンが語った、という話がヨーロッパにあったにも拘らず、日本でこの交響曲に「運命」という副題がついた、というシチュエーションに似ています。
 さらに、私は moha 説には弱点があるように思います。 mohaにいつ、どのような理由で「馬鹿」という当て字が使われるようになっていったかという説明がなされていません。又、いつごろ、どこの僧侶が隠語として使い始めたのかも説明されていません。
 まあ、 moha 説が本当なのだろうと思いながらも、「鹿を指して馬と為す」説が完全に否定されるまでは、この説を支持しようと思います。

 ところで、馬鹿には「愚か」という意味のほかに、「桁外れ」という意味があります。「馬鹿デカイ」とか「馬鹿受け」、「馬鹿に遅い」とか。この意味の馬鹿の起源は、サンスクリット語の maha (大きい、偉大な)のようです。 moha と少し違いますから注意が必要です。
 「摩訶」と字が当てられ、摩訶不思議などと使います。ところで、サンスクリット語とラテン語とは、インド=ヨーロッパ語族といって、元々同じグループです。mahaに該当するラテン語はmagnusで、意味はやはり「大きな」です。英語では、 mag が接頭語となって「大きい」という意味を表したりします。 magnify (拡大する)、Magnum といえば大型連発銃、イギリスの大憲章は Magna Carta 等。この magnus の比較級が major 、最上級が maximus (英語ではmaximum)です。この二つはよく聞きますね。 majority とか Her Majesty とかも maha と関係あります。
 それでは、最後に「バカ」で忘れられてはならない人物、「バカボン」について。ご存知、赤塚不二夫の「天才バカボン」の主人公、バカボンのパパの息子!?です。私はずっと「おバカな坊(ボン)」からの命名だとばかり思っていましたが、どうもそうではないらしい。
 仏教用語に「薄伽梵(ばがぼん)」というのがあり、そこから取ったそうです。「薄伽」は徳、「梵」が成就という意味で、全体で徳の成就となります。但し、赤塚氏本人のコメントではないので、信憑性に些か問題はあります。

 今回は随分長くなってしまいました。やはり、人事ではない言葉には愛着があります。

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