馬にまつわる故事(五)

第十四回  馬にまつわる故事成語(五)


 先日、「 笑っていいとも 」を見ていたら、「きれいなお母さんコンテスト」みたいなのをやっていました。そして、出演したあるお母さんの体重を聞いてひっくりかえってしまいました。37キロなのだそうです。
 私の上の娘は今、7歳なのですが、33キロ台です。勿論この数字は7歳としては太りすぎで、昨年の身体検査では、中度肥満のレッテルを貼られてきたのですが、それにしても、方やお母さん、方や7歳、而して体重差4キロ弱!このような現実、有ってよいのでしょうか?
 ま、体重のことはさて置き、現在、私の書斎に娘の勉強机があります。そうすると、どうしても娘の勉強具合が気になってきます。父親の持っている知識をわかりやすく説明してあげれば、どんなに彼女の役に立つだろう!?という妄想(これが妄想だという事が、最近、ようやくわかりました)に憑れ、もう、これ以上わかりやすくするのは無理、というくらい丁寧な説明を始めます。そしてようやく説明が終わり
 「 ね、わかった? 」
 そう言いながら娘を見ると、なんと窓の外を眺めていたりします。がああ〜ん!ああ、猫に小判、豚に真珠であったか、とがっくりしてしまうこと一度や二度ならず・・・
 というわけで、今日のお題は、「 馬耳東風 」です。
 この成語は、杜甫とともに中国最高の古典詩人と言われている李白の詩を出典としています。李白も杜甫も唐の人で李白の方が11歳年上です。彼らが生きたのは盛唐で李白は短い間ですが玄宗に仕えています。杜甫も仕官には熱心でした。ただし、従八品という低い地位しか得られず、後半生では就職を断念しています。詩人というとなにか吟遊詩人のような放浪しているようなイメージを持ちますが、中国の詩人はほとんど例外なく仕官しています。李白は翰林供奉(かんりんぐぶ:天子の側に仕える一種の顧問役)になりましたが、奔放で傍若無人、おまけに大酒のみときては到底、宮廷生活の枠には収まらず、結局宮仕えは3年足らずで終わりました。
 さて、この李白に王十二という友人がいました。
 私はつい最近まで、王十二とは王さんちの12番目の男という意味だと思っていました。ううん、さすが中国のお母さんはエライ!そう思っていたのですが、どうも一人で産んだのではないらしい。これは従兄弟の中で上から12番目の男という意味らしいです。言い換えればお祖父さんを同じくする子供の中で12番目の男の子ということです。ちなみに私は菊八になります。ああ、安心した。いくら夜、他にすることがないといっても、息子が12人いたら大変ですからね(しかも、女の子は別枠です。八娘などと数えます)。
 閑話休題。
 その王十二から「 寒夜獨酌有懐(寒夜に独酌して懐[おもい]あり) 」と題する詩を送られました。王十二は自分の不遇をその詩でうったえたようです。それに対して李白は「 答王十二寒夜獨酌有懐(王十二の寒夜に独酌して懐ありに答う) 」と題する詩を送りました。これが「 馬耳東風 」の出典となる詩です。
 この詩は非常に長いものらしいです。李白全集なんかには載っているのだと思いますが、全文はまだ見たことがありません。その中で李白は、
『 酒でも飲んで愁いを洗い落とそう、今の世は闘鶏の技にすぐれた人間か、さもなければ、わずかばかりの功をたてた人間がのさばっているばかりだ。我々は詩を吟じ賦を作る。しかし、どのような傑作ができようとも、今の世の中ではそんなものは一杯の水にも値しない 』
と述べた後
『 世人はこれを聞いてみな頭をふり
東風の馬耳を射るがごときあり 』
と詠っています。  東風とは春の風のことです。これは例の五行思想からきていますが、かなりわかりやすい方です。東には春、南に夏、西は秋、そして北には冬が配されます。
 春風が馬の耳にそよいでいるようなものだ(そんなことには、馬は無関心だ)。
 ここが出典です。ただ、これがすぐに故事成語として広まったわけではありません。これを成語として最初に使ったのは北宋の詩人、蘇東坡(そとうば)です。蘇東坡は蘇軾(そしょく)とも言い、春宵一刻値千金で始まる「春夜」という有名な詩を残しています。彼は科挙で進士に合格し、翰林学士、兵部尚書、礼部尚書などを歴任しましたが、左遷、復権を繰り返し、波乱万丈の一生を送っています。
 その蘇東坡に「何長官に和す」という詩があります。
  青山自是絶世
  無人誰与為容
  説向市朝公子
  何殊馬耳東風

 自然の山の美しさは、まことにすばらしいものであるが
 いったいどういう人と、この美しさをたたえたらよいであろうか
 これを街のなかの若者たちに語ったところで
 まったく馬耳東風であろう
(訳は、三笠書房:知的生きかた文庫:故事成語ものしり豆事典:山口修著から写しました)
 このようにして馬耳東風は世にでました。ですから、出典としては折り紙つきの由緒正しさを誇っているといえます。
 この成語の意味は、
1. 無知なために高尚なことを聞いても理解できない。
2. 自分の利益につながらないものへの無関心さ
 この二つがあります。本来は1.の意味でしたが、現在はどちらかというと2.の意味で使うほうが多いかもしれません。
 さて、馬耳東風と似た意味のことわざはたくさんあります。これに近いものとしては、「馬の耳に念仏」があります。そのほか、豚に真珠、猫に小判、犬に論語などがあり、もう少し使用頻度が少ないものでは、牛に経文、牛に麝香(じゃこう)、猫に石仏、対牛弾琴などがあります。
 犬に論語なんか、シチュエーションとしてかなり面白いと思います。
「うう、わんわんわん」
「これポチ、何を騒いでごじゃるのかえ、あ、こら、また人様の履物を咥えてきおったな。そのようなことをしたら、人様がご迷惑なさるであろうと、もう、何度ゆうてもわからぬ輩じゃな。孔子様もおっしゃっておられるぞよ。『過ちて改めざる、是を過ちという』、とな。」
 こんな犬もいるかもしれません。
シロ:「わん」
ポチ:「わん」
シロ:「わんわん」
ポチ:「わんわん」
シロ:「わんわんわん」
ポチ:「わんわんわん」
 「おおそうか、そうか、ポチはシロが遊びにきたのがそんなにうれしいか。孔子様もおっしゃっておられるぞよ。『友遠方より来る、亦楽しからずや』、とな」
 「猫に小判」はmade in Japan でしょう。「豚に真珠」の出典は新約聖書で、マタイによる福音書第7章第6節に、
 「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
とあります。

 前回の「馬鹿」の項が馬鹿重かったので、今回はこのくらいにしておきます。話は違いますが、最近の算数の引き算で驚いたことがあります。私が習った引き算、例えば13−7は、取り敢えず3を引いておいて、残りの4を10から引いて、答えは6、としました。今は、3から7は引けないので、隣から借りてきた10から7を引いて3、それと一の位の3を足して6とするんですね。まあ、こちらの方が合理的なような気もしますが、長年の癖はもう直りません。
 

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