兎にまつわる故事成語(一)

第40回  兎にまつわる故事成語(一)

 今回のちゅうごくちゅうどくは兎にまつわる故事成語です。兎と関係する故事成語で一番有名なのはやはり「株を守る」でしょう。「かぶをまもる」或いは「くいぜをまもる」、また「守株」と書いて「しゅしゅ」と読みます。どうしてこの諺がよく知られているのかと考えてみるに、何といっても「待ちぼうけ」という歌が大きく影響していると思います。ミソソーソー、ミソソーソーと始まる北原白秋 作詞、山田耕作 作曲による童謡唱歌です。

待ちぼうけ、待ちぼうけ。 あるひ、せっせこ、野良かせぎ、 
そこへうさぎが飛んで出て、 ころり、ころげた 木のねっこ。

待ちぼうけ、待ちぼうけ。 しめた、これから寝てまとうか、 
まてばえものはかけてくる。 うさぎぶつかれ、 木のねっこ。

待ちぼうけ、待ちぼうけ。 昨日鍬とり、畑仕事、 
今日は頬づえ、日向ぼこ。 うまい切り株、 木のねっこ。

待ちぼうけ、待ちぼうけ。 今日は今日はで待ちぼうけ、 
明日は明日はで森のそと、 うさぎ待ち待ち、 木のねっこ。

待ちぼうけ、待ちぼうけ。 もとは涼しいキビ畑、 
今は荒れ野の箒草。 寒い北風、 木のねっこ。

 ある日、畑で農作業をしていたら、走ってきた兎が切り株にぶつかった。(それで死んだのか、それとも気絶したのか、この詞では触れていませんが、とにかく)棚から牡丹餅式に獲物を手に入れ味をしめたその人は、次の日から農作業をすることを止め、ずっと兎が切り株にぶつかるのを待ち続けた。その結果、(当然、兎は一匹もぶつからず)キビ畑はすっかり荒れ果ててしまった。
 歌詞の内容は以上の通りですが、このお話には歴とした出典があります。韓非子です。韓非子の「第四十九 五蠹篇」にこの話が出てきます。「五蠹」は「ごと」と読み、「蠹」は「木を食い荒らす虫」という意味です。難しい字ですね。パソコンでは略字を使っていますが、正しくは、恵の上半分の下にワ冠を書いて、その下に石を書いて、その下に虫を二個並べて書きます。
 パソコンで画数の多い漢字を正しく表記させるのはまだまだ難しいらしく(画面の解像度の問題で、技術的には可能でも価格的に考えるとそこまで必要ないということなのかもしれません)、このような略字(つぶれ字?)を使います。私が小さなフォントを使わない理由はそこにあります。例えばこの字を10ptで表記するとさらに潰れてしまいます(もっと大きなフォントを使えば正確な字が出てくるかというとそうではなく、単に略字のまま大きくなるだけです)。


10pt
30pt
 アルファベットのような単純な文字ならばフォントを小さくしても問題ないのですが、格好いいとか、洗練されているという、単にデザイン上の理由で小さいフォントの漢字を使用することには、私はかなり抵抗感を持っています(それに老眼だからね)。
 話は戻って「五蠹」ですが、韓非子は国を蝕む五つの民がいるとして、学者、説客、遊侠、側近、商工の民を挙げ、その総称として五蠹を用いています。  私が持っている韓非子の本(中公文庫:町田三郎訳注)では、この章を韓非子の中でも「名篇」と紹介しています。そして「株を守る」はその名篇の最初の段落に出てきます。
 韓非子は語り始めます。上古の時代、人は少なく鳥獣が多く、そのため人は鳥獣や大蛇に勝てなかった。そこで聖人が木を組み合わせて住居を作り、危害から身を守る方法を教えた。また、人は生ものを食べていたが、生臭く、胃腸をこわす人も多かった。そこで聖人は木をこすり合わせて火をおこし、生ものを調理する方法を教えた。鯀と禹(夏の王朝を開いた人)は新たに河川を切り開いて洪水を治めた。
 ところで、もし、夏王朝のときに木を組み合わせて住居を作り、木をこすり合わせて火をおこす者がいたらきっと鯀や禹に笑われるだろう。殷や周のときに新たに河川を切り開いて洪水を防ぐ者がいたらきっと湯王や武王に笑い者にされるだろう。そうだとすると昔の聖人の業績が今も通用するものとして賞賛する者がいたならば、きっと新しい聖人に笑い者にされるだろう。このように古ければ何でも良いわけではなく、一定不変の善などにも従わない。今日の事情を考慮し、それに応じて対策をたてるのである。
 このように述べた後、いよいよ株の話を始めます。
 宋の国の人で、畑を耕すものがいた。畑の中に切り株があったが、兎が飛び出してきてそれにぶつかって頸の骨を折って死んだ。男は苦労せずに兎を得たことを喜び、それからは耕作をやめ、切り株から離れず、もう一度兎が得られるようにと願った。しかし、もちろん兎は二度と得られず、彼は国中の笑い者になった。
 そして最後に、「古代の王者の政治を踏襲して今日の民を治めようとするのは、すべてこの農夫と同類なのである」、と結んでいます。

 北原白秋の詞は、最後の「笑い者になった」のが「今は荒れ野の箒草」となっている他は、原典にほぼ忠実です。確か立川澄人さんなんかも歌っていたように思いますが、最後の「木のねっこ」の所はおどけた感じだったと記憶しています。私も子供の頃、この歌を歌いましたが、その印象は、「のん気なやっちゃなあ」でした。それはそれでいいと思うのですが、ただ、韓非子にしてみれば、のん気で少しおトンマな農夫を描くのが主たる目的ではなかったのは確かでしょう。韓非子はこの段落で、学者、特に儒者の側近を五蠹の一つとして描いていると思います。
 孔子は尭や舜という上古の聖人、或いは周公を理想としていたので、後世の儒家は何かというと、「昔は良かった・・・」と口走ります。

お殿さま:「何か新しいことをやりたいなあ」
側近:「いけません」
お殿さま:「そうじゃ、女子(おなご)の大臣なんかどうかのう」
側近:「とんでもないことです。政治は男の仕事と決まっております」
お殿さま:「そんなこと、いつから決まっとるの?」
側近:「古(いにしえ)からでございます」
お殿さま:「なかなかのアイデアだと思うがのう・・・」
側近:「そのようなことをなされば、天下の笑い者になってしまいますぞ」
 論語には温故知新という言葉も出てきますが、多くの凡庸な儒者は「温故」だけを重要視していました。

 ところでこの「笑い者」についてですが、株の話では「宋」という国の農夫が笑い者になっています。中国の歴史に宋は何度か現れます。近いところでは、10世紀(そんなに近くないか・・・)、五代十国の後に始まった宋(北宋、南宋があります)、それから5世紀、南北朝の南朝で興った宋(劉姓なので劉宋と呼ばれます)、そして一番古いのが春秋の宋です。韓非子は紀元前の人ですから、株の話の宋はもちろん春秋の宋です。この宋が関係している故事に「宋襄の仁」というのもあります。「宋の襄公の情け」という意味で、簡単に説明すると、敵方が河を渡っているとき、公子が、「今攻めれば敵は陣を敷くことはできません」と進言したのに対して、襄公は「人が困っているときに苦しめてはいけない」と渡りきるのを待った(そして負けた)、という話で、「無用の情け」という意味で使われます。ここで笑い者になっているのもやはり「宋」の殿さまです。
 もう一つ、登場人物が笑い者になる例として、「杞憂」を見てみましょう。これは列子の天瑞篇に出てくる話で、「杞の国の人の憂い」という意味です。
 杞の国に、天が落ち地が崩れるのではないかと心配で、夜もおちおち眠られず、食べ物も喉を通らない男がいました。その心配ぶりを心配した別の男がわざわざ出かけてその男を諭しました。
「天は大気の集まりで大気はどこにでもある。現に我々も大気の中にいる。どうしてこれが壊れるこがあろうか。」
それに対して心配性は
「では太陽や月やお星さまは落ちてこないだろうか」
「太陽や月やお星さまは大気の中でただ光り輝いているものでしかない。万一落ちてきたって、それが中って怪我をすることなんかないさ」
男はさらに
「それじゃ大地が壊れたらどうするんだ」
「大地はただの土のかたまりさ。どこまでいっても大地しかないのにどうしてこれが壊れようか」
それを聞いた心配性は疑いがすっかり解けて大変喜びました。また、説明した男も骨折りがいがあったとたいそう喜びました。
 以上のことから、無用な心配を杞憂と言うようになり、この心配性の男を笑い者にするようになりました。
 但し、列子では話がもう少し続きます。二人の話を聞いた楚の哲学者は笑って言いました。
「どうして崩壊しないと断言できるだろうか。天地が壊れるのを心配するのはあまりにも遠大にすぎるが、壊れるときは壊れるものなのだ。その時に居合わせたならば、どうして悲しまずにいられようか」
 それを聞いた列子は笑いながらこういいました。
「わからないものを心配することは甚だ無駄なことだ」

 さて、これまでに「宋」と「杞」という二つの国が出てきました。そしてその住民が笑い者になっているわけですが、何かこの二つの国に共通点があるのでしょうか。実はあるのですが、すぐにピーンときた方はかなりの「ちゅうごくちゅうどく」です。
 どちらも亡国の遺民の国なのです。杞は夏の、宋は商(殷)の遺民の国なのです。昔は前王朝を倒しても、一族郎党を皆殺しにするというような野蛮なことはしませんでした。何故かというと、祖先の祭祀を続けさせるためです。祭祀を受けない霊は祟りをすると信じられていたのです。昔の人の怨霊の祟りに対する感覚は、後世の人の理解をはるかに超えるものがあります。
 そういうわけで亡国の民の国というものが存続することになるのですが、やはりそこは敗戦国の悲しさ、どこか冷たく扱われるようなところがありました。そして逆の立場、見下す方の心理がこうした故事成語という形で残りました。故事の主旨から言えば、別にどこの国の人間でも良いのですが、なんとなく笑い者のイメージにぴったり来るのが、宋や杞の人たちだったのではないでしょうか。
 これは私が唱えた説ではなく、陳舜臣氏が述べていることですから、安心して《人にも話してください》。
 

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