兎にまつわる故事成語(二)

第41回  兎にまつわる故事成語(二)

 兎にまつわる故事成語の2回目、本日のお題は「始めは処女の如く、後は脱兎の如く」です。出典は『孫子』で、その「第十一 九地篇」に出てきます。これまでに《ちゅうごくちゅうどく》で扱った『孫子』出典の故事成語としては、第7回の「呉越同舟」があります(これも九地篇に出てきます)。そのときは孫子の作者については、ただ「孫武」とだけしか触れませんでした。今回はもう少ししつこく詮索してみましょう。
 皆さんもうご存知でしょうが、古来、孫を苗字とする有名な兵法家が二人いました。孫武と孫臏(びん)です。孫武は斉の出身で呉王闔廬に仕え、その息子夫差とも時代が重なっています(BC6世紀末〜5世紀初め)。もう一方の孫臏もやはり斉の国の人で、孫武の子孫ということになっています(史記)。南宋のケ名世という学者によると孫武の孫(まご)ということになっていますが、シャレでしょうかね。海音寺潮五郎はその著「孫子」の中で、ケ名世の説に疑問を呈しています。二人の活躍した時代がほぼ150年隔たっていているからです(史記では孫武の死後100年あまり経って孫臏があったとしています)。中国では一世30年と考えるのが普通なので、3世〜5世離れていると考えるのが妥当なようです。
 『史記』には二人にそれぞれ書があったことが記されています。この時代の中国の書物(と言っても竹簡ですが)は、その人の姓に《子》をつけて「〜子(〜先生の書)」と表します。老子、荘子、孟子等(孔子は、偉すぎるのか「論語」と呼ばれています)。孫武と孫臏の書もこの例に倣い「孫子」と呼ばれていました。『漢書』芸文志にも「呉の孫子兵法八十二篇」、「斉の孫子兵法八十九篇」とあります。但し「呉の孫子兵法八十二篇」の篇数には問題があります。『史記』には闔廬が孫武に向かって「あなたの書十三篇を読んだ」とあり、現在伝わっている孫子も十三篇だからです。
 ところで、現在私たちが手にする『孫子』は「魏武註孫子」というものが元になっています。「魏武註孫子」というのは「魏の武帝が註を施した孫子」という意味で、魏の武帝とは曹操のことです。不思議なことに曹操は孫臏には全く触れていません。『漢書』が著されて約100年後のことです。そして7世紀に書かれた『隋書』の図書目録には孫臏の『孫子』に関しては何も載っていません。
 そういう経過があるので、後世の学者の間では残っている『孫子』の本当の著者は誰なのか?という論争が始まりました。一応は孫武の書ということになっているのですが、その内容が孫武が生きた春秋後期に相応しくないとか(例えば春秋にしては軍の規模が大きすぎるとか)、文体が春秋時代よりも後のものだとか(後世の人の手がはいっているのだから当たり前だがねと思うのですが、コトはそう単純ではないらしい)、その他色々「?」が付くようなことがあり、「これは孫臏の作だ」、「孫武が著したものを孫臏が加筆修正したんだぎゃあ」、「孫武なんか最初からおらんでかんわ」、「偽作だわ」、「田吾作だがね」などと、白黒つけられないことを良いことに言いたい放題の状態が続きました。
 ところが何と!白黒が着いちゃったのです。それは1972年のことでした。山東省南部にある臨沂という町に銀雀山という丘があり、そこから漢代のお墓が二つ発掘され、殉葬品の中から夥しい竹簡が出てきたのです。お墓の形式だとか、一緒に埋められていたお金の種類などから、相当な正確さで漢代だということがわかったのです。早速「銀雀山漢墓竹簡整理小組」というプロジェクト・チームが編成され、2年後の1974年、中間報告が行われました。それによると、出土した竹簡の中身は、『(孫武の)孫子』、『六韜(りくとう)』、『尉繚子(うつりょうし)』、『菅子』、『晏子』、『墨子』の他、既に消滅したと考えられていた『(孫臏の)孫子』や『漢武帝元光元年暦譜』(こんな本、知らんゾ)だったのです。2000年前の本物が出てきたのではどうしようもありません。従来の『孫子』は孫武のもの、それとは別に孫臏の『孫子』があることはもはや疑いようもない事実となったのでした。

 故事成語なんぞはどこへやら、絶好調の道草大王の田秋さんですが、最後にもう一つだけ。孫臏の「臏」ですが、この字は足切りの刑を表します。ですからこれは本名でも字でもありません。言うなれば「風車の弥七」や「パツラのはっちゃん」、或いは「ギョロ目のアラヤン」と同じ類のものなのです。
 さていよいよ本題に入りましょう。「始めは処女の如く、後は脱兎の如く」は『(孫武の)孫子』(以下『孫子』)に出てくることは冒頭に書きましたが、正確には「始めは処女の如くすれば、敵人、戸を開かん。後に脱兎の如くすれば、敵拒(ふせ)ぐも及ばざらん」です。「最初は弱々しく見せよ、そうすれば相手が油断して戸を開けるだろう。そうしたら素早く行動せよ、敵はもうそれを防ぐことはできない」という意味で、簡単に言えば、騙まし討ちです。
 語句の説明をしておきましょう。語句の説明と言っても難しい言葉はありません。「脱兎」は「非常に速いこと」で、元々は逃げていく兎のことです。中国には「飛鳥尽きて、良弓蔵(おさ)められ、狡兎死して、走狗烹らる」という諺があるように、兎=すばしこい、という概念があります。それが一目散に逃げていくのですから、大変すばしこい、ということになります。誤解しやすいのは「処女」です。元々は男を知らぬ娘という意味ではなく、まだ世に出ない娘=結婚前の娘、という意味でした。結婚前なのだから男を知っているなんてあり得ない!、という男の身勝手(?)な考えから現在のような意味になりました。ですから結婚前ではあるが、「オジサン、遊ぼーよ」などと渋谷辺りでうろついている顔クロ娘や、同じ顔クロでも朝から晩まで野良仕事をしていて、軽々と米俵(中国に米俵があるかどうか知りませんが)を持ち上げるような怪力百姓娘を想定しての処女ではありません。士大夫階級の深窓の令嬢、話したことのある男といえば家族か爺や、せいぜい親戚のオジサンぐらいまでで、赤の他人の男性とは恥ずかしくて目を合わすこともできない、そういう娘のことです。相手からすれば、か弱そうな女を誘拐しようと肩に手をかけたら、いきなり股座(またぐら)蹴り上げられ身包(みぐる)み剥がれるようなもんです。

 『孫子』自体、文庫本で厚さ6〜7ミリ程度のものですから、各々の篇は大変短く、凝縮したエッセンスが詰まっているという感じです。この「第十一 九地篇」を読んでまず感じるのは、戦うときは、戦う以外には生きる道がないという状況(これを死地といいます)に兵を置けということです。ですから自国(これを散地といいます)や、敵地でも自国に近いところ(これを軽地といいます)で戦うことを戒めています。兵に逃げ帰る場所があるからです。戦うしかないとなれば日頃仲が悪いもの同士でも力を合わせます(呉越同舟)。また逆にこちらが相手を囲んだ場合はどこかに逃げ道を開けておくようにします(師を囲めば必ず闕く:第八 九変篇)。敵は戦うより逃げようとしますから、そこを攻撃するなり捕虜にせよという訳です。
 ただ、『孫子』を通読すると、戦わずして勝つことを最上としています。具体的には政治によって相手を屈服させるのを良しとします。戦うにしても勝ってから戦えと言っています。今風に言えば、シミュレーションをした結果どうやってもこちらの勝ちとなった、それを確認するために戦い、ということになります。日本人が好きな「当たって砕けろ!」は下の下なのです。「当たって砕けろ」で成功した人は、世間の話題に上ります。それだけニュース性があるということで、裏を返せば、滅多に成功しないということなのです。『孫子』の冒頭は「戦争は国の重大事である。国民の死活の決まるところ、国家存亡のわかれ道であるから、よくよく熟慮してかからねばならない」と始まります。滅多に成功しない方法が国民の死活を左右するのであれば、そういう方法を選択したトップには最早トップとしての資格はないのです。


参考文献:
町田三郎訳注『孫子』:中公文庫
村山孚『孫子』:PHP文庫
村山孚『孫臏兵法』:徳間書店
 

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