牛にまつわる故事成語(一)

第20回  牛にまつわる故事成語(一)

 11月23日の朝、いつものように新聞(毎日新聞)を手にしたのですが、その一面トップ記事を見てのけぞってしまいました。
「殷・紂王の兄の墓と断定」、「史記に登場 実在を確認」
 それは1997〜8年に発掘された墓が、紂王の兄・微子啓(開とも)のものと断定されたというニュースで、久しぶりに味わったワクワクゾクゾク的驚きでした。商(殷)は大体BC1050年頃、周によって滅ぼされました。当時は、国を滅ぼしてもその祭祀は引き継がれました(呪われるのがこわかったので)。紂王は商最後の王で、国が滅びる時に死亡しましたが、微子啓は宋という商の遺民の国に封じられ(最初、宋には紂王の子、武庚が封じられました。その後、管叔、蔡叔らと共に反乱を起こし成敗された為、微子啓はその後を引き継いだのです。)、祭祀を引き継いだのでした。
 ですから微子啓が亡くなったのは今から約3000年余り前(!)のことになります。今まで何度も書きましたが、その頃日本は・・・。しかも、盗掘されておらずその当時のままで出土したらしいのです。これからの調査報告が楽しみです。
 それにしても、この記事を一面トップで扱った毎日新聞様、あなたはエライ!
 
 気の向くままに「ああだんべえ。いや、こうだんべえ。ホントは、うそだんべえ」と書き散らかしてきた「ちゅうごくちゅうどく」もいつの間にか20回を迎えました。こんな胡散臭いもの(もちろん、川村教授の論文は除きます)、誰が読むのだろうと思っていたら、意外にアクセスがあるらしくて(ウエブマスター談)、ほんま暇人的変人(あなたのことです!)がいらっしゃるものだと、感心しています(変な日本語だ)。
 さて今回から「牛にまつわる故事成語」を調べて行きたいと思います。牛は馬とともに人間の生活に深く関わっている動物ですが、馬が戦(いくさ)に用いられ華々しく活躍するのに比べ、牛は、主に農業とか荷車とか活躍が控えめな為か、故事成語もそれほど多くはありません。古い故事の例としては、老子が青牛に乗って関所からどこへともなく立ち去った、というものを挙げることができます(青牛といっても、実際青いわけではなく、真っ黒い毛並みの牛のことで、光線の都合で青く見えることがあるようです)。しかしこのこの故事は成語とはならず、その代わり、絵画や彫刻方面で格好の材料となりました。
 では最も有名な「牛にまつわる故事成語」は何だろうかというと、やはり「牛耳る」ということになるでしょう。ということで本日のお題は「牛耳る」。
 今は「牛耳る」と言いますが、正しくは「牛耳を執る」で、団体とか地域のボスとなって思い通りに事を運ぶことを言います。
 「牛耳る」について調べていると、次のような指摘によく出会います。それは名詞の動詞化ということです。例えば、私たちは「事故る」、「デブる」、「メモる」とか、もっとすごい例だと「パニクる」とかを耳にすることがあります。私も「メモる」は時々使います。これは「事故」、「デブ」、「メモ」、「パニック」といった名詞に「る」をつけて動詞としたものです(元々英語の「memo」、「panic」には動詞としての用法がありますが、日本語でこれを動詞として使う場合、従来、「メモを取る」、「パニックになる」のように使われてきました)。到底良い日本語とは言えませんが、まあ、そういう現象がかなり古い時代から行われていたということには、少々、驚かされます。こういうのを日本語の乱れというかどうかはわかりませんが、「牛耳る」が使われだした頃、巷の大人はひょっとしたら「今の若いモンの言葉は乱れとる!」と憤慨していたかも知れません。
 先ほど老子の青牛の故事を「古い例」と書きましたが、実は、この故事成語も負けず劣らずの古さを誇ります。春秋左氏伝の定公八年の記事に「牛耳を執る」という言葉が出て来るのですが、この定公八年というのは西暦でいうとBC502年になります。老子とBC502年とどちらが古いかは、まあ、難しいところもありますが、老子の方が後輩だったというのが現在の有力な学説のようです。老子がまだ生まれていなかった頃、というだけで眩暈を起こしそうです。もっとも、老子はその存在自体疑わしいところもあるのですが・・・
 「牛耳を執る」という行為は、誓いの儀式の中の重要な行為です。どういう行為をするのか簡単に言うと、牛の耳を割いてその血を啜り合うのです。神に捧げる犠牲(いけにえ)は牛と決まっていました(と『十二支物語』で諸橋徹次が言っています)。何故啜り合うのかというと、同じ動物の血を啜ることによって同じトーテムに属するという意識を持つためで、
「ボクたち仲間だもんね、仲間が約束破るのよくないアルよ。もし破ったらお仕置きだかんね。お仕置きは痛いアルよ。」
ということになったのでしょう。
 それでは何故「耳」を割くのかというと、これはなかなか難しい、というか、納得のいく説明には出会えませんでした。
 「河出文庫・中国故事物語・教養の巻・牛耳を執る」の項に
「牛の耳には穴がないように見える。神のまえに盟いをたてる面々は、牛の耳を執って、自分はちゃんと耳の穴をあけよう、神の言を聞こうと、みずから戒めたのだといわれる」
とあります。
 井本英一著「十二支動物の話<子丑寅卯辰巳篇>・牛の話」には
「なぜ尾や睾丸ではなく、耳であったかについては追求しなければならないが、ゾロアスター教の通過儀礼にも犬の耳を取る儀礼があり、耳が生命の宿る場所であると考えられていたことだけは推測できるのである。」
とあります。どちらの説も断定はしておらず、従って、専門家の間でも定説はないのかも知れません。
 「血をすする」と簡単に言いますが、具体的にはどうやってすすっていたのでしょう。私は牛の耳を切り取った傷跡から直接血をすすっていたのだと思っていました。先日、橋本隊員に尋ねてみると彼は、血を器かなにかに取って、それをすするのではと言う意見でした。それで、随分、本で探してみたのですが、具体的な作法を書いた所を見つけることが出来ませんでした。それで、困った時は黄虎洞伯泉斎先生に聞け!のメソードに則って、尋ねてみました。そうすると
 「血を盤などの容器に受けて、その容器から啜ります。」
との回答がありました。
 私は別に黄虎洞伯泉斎先生の宣伝マンではありませんが、この先生、本当にお返事が素早い!私は今まで3回、教えを乞いましたが、すべて翌日にはお返事をいただけました。ヒマなのかなあ・・・。皆さんも、何かあったら是非一度先生に尋ねてみられると良いと思います。
 血のすすり方は橋本隊員が正解でした。それで
「センセ、あなたが正しかった!」
と報告をしながら、ではなんという書物に具体的な作法が書いてあるんだろうなどと話をしていたところ、マタマタ、有益な示唆を与えていただいたのでした。それも決定的とも思えるヒントでした。
 それは漢字の形にありました。「血」と「皿」。この二つの漢字が似ていることは誰もが知っています。漢和辞典を調べたところ、「血」の上にある「チョン」は「血」を表し、全体として「皿」に「血」が入っていることを表しているとのことでした。
 通常、皿に血を入れることなどそうあるものではありません。血を皿(器)に入れるのは、勿論、飲むためで、血を飲むという行為はもう尋常ではありません。何か非常に重要な誓を立てるときの作法だったのです。
 橋本隊員の示唆を元に漢和辞典を調べて、私は今日初めて、この二つの字が何故似ているかの本当の意味がわかりました。

お父さん:「母さん、これはトマトジュースかい」
お母さん:「このところ寒いでしょう。だから今日は牛とスッポンのブラッドジュースでお父さんに暖まってもらおうと思って。・・・うふ・・・」
お父さん:「あ・・・いや、・・・そ、そうだね。最近寒いね・・・ど、道理で寒いと思った・・・、ははは・・・」
お母さん:「暖まるだけじゃなくて元気にもなるのよお。うふ、うふふ・・・」
お父さん:「そ、そうか、元気にね、・・・最近、つ、疲れてるからなあ・・・。そうだ、きょ、今日は、は、早く寝るとしよう。・・・ああ、疲れた・・・もう、バタンキューだ・・・ははは・・・」
お母さん:(聞こえないフリ)「太郎!花子!今日は早く寝なさい!!」
こういう家庭もあるかもしれませんけどね・・・

 陳舜臣氏の「中国の歴史(一)」に興味深いことが書いてあります。彼が西域を旅行した時、遊牧民(カザフ族)のパオに招かれたことがあったそうです。彼らは大切なお客がくると羊を一頭屠って料理を作るのですが、その羊の頭を盆にのせて主賓のところに持ってくるというのです。主賓はナイフでその耳を切り落とすのが、この時の作法なのです。「牛耳る」とは意味合いがだいぶ違うかもしれませんが、ルーツは同じような気がします。
 又、「取る」という字は、偏は「耳」、旁(ツクリ)の「又」は「手」のことで、「手で耳をとる」ことを表しているそうです。
 さて、昔、実際に行われていた「牛耳を執る」作法なのですが、一概にこうだったとは言えないようです。春秋左氏伝「定公8年」の項には、牛耳を執る役目はその会盟での下位の者が行うということになっています。ところが「哀公17年」の項では牛耳を執ることによって自分が上位の者であると主張しようとしています。定公8年はBC502年、哀公17年はBC478年でその間25年足らずです。その間に作法の変化があったのでしょうか。この辺りのことはよくわかりませんが、どうも諸侯にとって最も大事なことは「牛耳を執る」ということよりも「血を啜る順番」だったようです。
 前出、井本英一著「十二支動物の話<子丑寅卯辰巳篇>・牛の話」には
「古代中国の盟約では,卑賤の者が牛の左耳をとり、尊貴の者が臨んだ。この時、盟をつかさどる者は牛耳を割いて血を取ってこれをすすり、耳を珠盤に盛り盟をつかさどる者がこれを取った」
とあります。これによれば下位の者が耳を執り、上位の者がその耳を割き、その血を啜ったことになります。
 会盟の名場面と言えば、黄池の会盟での呉と晋のやりとりでしょう。呉王が諸侯を黄池に集めて会を開いている隙に、越王が呉に攻め入ったときの話です。相当有名な場面であったらしく、史記、左氏伝、国語等で扱っています。ただ、問題があって、どちらが牛耳を執ったかの記述が異なっています。
 ああ、また長くなってしまった・・・
 

目次へ