牛にまつわる故事成語(三)

第22回  牛にまつわる故事成語(三)

 気軽に書き飛ばしていた「ちゅうごくちゅうどく」ですが、なんと、中国がご専門の先生(大東文化大学の中林先生)の目に触れてしまっていることが判明しました。今まで「ちゅうごくちゅうどく」を書くにあたって、二度三度、(身分は隠して)アドバイスを仰いだことのある先生で、しかも、ご親族に音楽畑の方がいらっしゃって、以前から当HPに出没していらしたとのこと。ひえ〜、悪いことは出来ませぬなあ。
 ことさら身分を隠すつもりはなかったのですが、別に職業まで明かすこともあるまいと思って・・・。先生の方でも少しは驚かれたことと思います、japanphil-21.comで私の名前を見かけて、あれ、コイツ何度か変なことをメールで聞きにきた奴と名前が同じだぞ、って。こちらはというと、掲示板で中林先生の書き込みに遭遇した時はまさに青天の霹靂でした。一瞬、私が先生から頂いたアドバイスを曲解して書いてしまい、それに対する抗議かと思いました。しかし、読んでみると、ご自分のHPに「好好中国倶楽部」のリンクを貼らせて頂きたいとの申し込み、これには二度びっくり、「勝負は下駄を履くまでわからない」ではありませんが、ホント、世の中、何がどうなるかわかりません。
 一日二日は、これは大変なことになった、下手なことは書けないぞと、ビビっていましたが、よくよく考えて見れば、こちらはトウシロウ、一素人が少々的外れのことを書いても、別に中国関係の学会から鉄拳が飛んでくるわけでもないし、この雑文が何かに影響を与えるとも思えず、いわば大海の一滴、九牛の一毛のようなもの。という訳で、本日のお題は「九牛の一毛」です。
 九牛の一毛の使用例は上述の通りで、「非常に多数のなかの一部分」ということから「物の数にも入らない、取るに足らないこと」という意味です。「物の数にも入らない」という点では、「大海の一滴」の方がよりふさわしいように思えますが、「九牛」は別に「頭数を九頭」に限定する意味はなく、「たくさんの牛」というほどの意味ですから、どちらも同じです(いくらたくさん牛の毛の本数といっても、やはり大海の水の方が多いぞ、と思ったあなた、正しい観察ですが、それでは友達をなくします)。「九死に一生」といっても生存率が10%だと言っていないのも同じです。ただ、「万死に値する」という言い方はあります。「九死」と「万死」はどちらがより死んでいるかという問題は、∞(無限大)と∞×2とではどちらが大きいかという問題と似ています。
 さて、いよいよ本題にはいりましょう。この「九牛の一毛」の出典はどこかと言うと、「漢書・列伝・司馬遷伝第三十二」の中の「任安に報ずる書」という部分です。「ちゅうごくちゅうどく」お読みの方なら漢書の著者が誰であるかは勿論、ご存知ですよね(「虎にまつわる故事成語(一)」参照)。以前どこかで書いた気もしますが、私は「ちくま学芸文庫」で小竹武夫訳の「漢書」を持っています。これは五年程前に出版されたのですが、それよりも前のこと、文庫本になる前の元の本を神田の古本屋で見かけたことがありました。ずっと欲しい!と思っていたので、店の人においくらですかと尋ねたら、「10万円。。。」とのことでした(確か三巻本だったと思います)。店の人は、「ちょっとあなたには買えないでしょう?」という顔をしていましたが(のように見えた。被害妄想か!?)、くやしいですが、実際、手が出ませんでした。それからしばらくしたら、なんと、文庫本で出たのです!文庫本といっても全巻揃えで一万円はかかったと思いますが、それにしても、10万円のことを思えば、「ざまあみさらせ!」でした。おお、神は私をお見捨てにはならなかった!
 閑話休題。
 「任安に報ずる書」とは司馬遷の旧友の「任安からの手紙に対するお返事」です。これは古今の名文です(と思います)。これを読むためにだけでもちくま学芸文庫の「漢書5」を買う価値があります。多分、訳もいいのだと思いますが、「涙をさそう」という安易な表現ではとても言い尽くせない司馬遷の悲愴な決意がそこから伝わってきます。例えば、司馬遷は自分のことを「僕」と言っていますが、現在私たちが使う「僕」とは全く違う響きがそこに感じられます。
 司馬遷は李陵事件で彼を弁護したことで武帝の怒りを買い、宮刑(去勢される刑のこと)に処せられました。しかし二年後の大赦により(武帝も少しは反省した)中書令として復帰していました。傍ら(実はこちらが主)、史記の執筆に全身全霊を傾けていたのですが、その頃、任安から「君はお主上の信を得ているのだから、賢を押し士を進めるべきではないか」という手紙をもらったのです。 しかし司馬遷は、宮刑に処せられた者がそのようなことはするべきではないと思っており、返事も一日延ばしでついつい書くことを怠っていました。 ところが今度はその任安が皇太子謀反事件に連座して、収監され、斬罪に処せられることが決まりました。それを知った司馬遷はついに手紙を書くことを決心し、自分の本当の気持ちを包み隠さずに書き綴ったものがこの「任安に報ずる書」なのです。
 この手紙は深い悲しみで覆い尽くされています。任安の「賢を押し、士を進めるべきではないか」という問いかけに対して
「(人々は)、朝廷に人材がいかに乏しくとも、どうして刀鋸(とうきょ)の刑を受けた者に天下の豪傑俊秀を推薦させるでしょうか。」
「ああ、ああ、僕のごときもの、なお何を言うことがありましょうぞ。なお何を言うことがありましょうぞ。」
このように答えています。
 宮刑に処せられたときのことを次のように言っています。
「すでに李陵は生きながら降伏して、家名を失墜し、僕また蚕室に下されて(宮刑のこと)、罪これにならび、重ねがさね天下の物笑いとなりました。悲しいかな。悲しいかな。」
 この「悲しいかな。悲しいかな。」を目にするとき、私はただ呆然とし、涙が滲んできます。
 このように述べた後、
「たとえ僕が法に伏し誅を受けたとて、九牛が一毛を失うごときもの、螻(けら)や蟻の境涯と何ほどのちがいがありましょう。」
このように書いています。ここが「九牛の一毛」の出典となるところです。
 このあとまだまだ続くのですが、文意を大雑把に要約すると、次のようになります。
「このような屈辱を世間にさらしながらも、自害もせず、おめおめと生きているのは、自分の心の中を言い尽くしていないことのあるのが心のこりであり、このまま死んで、文章著述が後世に顕われないことを恥じるからであります。」
 言うまでもなく、文章著述とは史記を執筆することで、これは父司馬談の遺言でもありました。父の遺言ではありましたが、司馬遷を史記の記述に駆り立てた本当の理由は別にあったのではないかと思っています。
 史記の「伯夷列伝第一」に「天道是か非か」という言葉があります。「時機を考えてのち発言し、行いは径(ぬけみち)をとおらず、正しきことにのみ憤りを発する、それでわざわいに出会った者の数は、とてもかぞえきれない。」このあと「天道是か非か」と続くのですが、これは自分の理不尽な境遇のことをどうしても書きたかったのに違いありません。
 私が持っている「史記」は岩波文庫ですが(上記の訳文も岩波文庫からの引用です)、「伯夷列伝第一」の注(一)に「伯夷伝が最初に置かれたのは、〜(中略)〜、列伝全部の序論ともいうべき意味をもっているためである。」とあります。史記には勿論、「任安に報ずる書」はありません。個人に宛てた手紙には自分の赤裸々な心情を書けても、太使公たる身分で叙述する「史」に自分の身の上話を書けるはずがありません。しかし、司馬遷は書いたのです。「天道是か非か」、この問いを発すること自体、天道は「非である」と断じているのではないでしょうか。
 何の気なしに「取るに足らない」ことを「九牛の一毛」と言っていますが、ひとたび司馬遷の悲痛な叫びを聞いてしまうと、この言葉をそう簡単には使えなくなってきます。

この項おわり



事件の解説

李陵事件:簡単に言えば、匈奴討伐に向った李陵が逆に匈奴に投降した事件。中島敦がこのことを題材に「李陵」という名作を書いています。関係ありませんが、中島敦は、「悟浄出世」、「悟浄歎異」という作品も書いています。もちろん、西遊記に出てくる沙悟浄のことです。


皇太子謀反事件:武帝は高齢になってから非常に猜疑心が強くなり、自分が病気がちなのは、誰かが巫蠱(ふこ:木の人形を地中に埋め、呪詛して憎い相手を呪い殺すこと)の術を使っているのだと疑っていました。ここに武帝に高く評価されていた江充という人物がいましたが、ある事件で皇太子に恨まれていました。彼は武帝の死後、皇太子の時代になれば報復されることを恐れ、皇太子を亡き者にしようと企てました。そのとき利用したのが巫蠱で、皇太子の宮殿の地中から木の人形が出るように仕向けました。疑り深くなっていた武帝は、わが子をも疑い、追い詰められた皇太子はついに江充を殺し、クーデターを起こしました。
 皇太子は北軍の出動を促すため、護北軍使者の任安を召し、節(兵権の印)を与えました。任安は節を拝受しましたが、そのまま引き返し、門を閉じてしまいました。
 結局、クーデターは失敗に終わり、皇太子は自殺しました。任安は兵を発していないにもかかわらず、腰斬の刑に処せられました。両心有り、と疑われたのです。一応節を受け取り、形勢のいいほうに味方しようとしたという容疑でした(陳舜臣著「中国の歴史(二)」を参考にしました)。
 

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