牛にまつわる故事成語(四)

第23回  牛にまつわる故事成語(四)

 牛にまつわる故事成語も今回で4回目となりました。今まで、牛耳る、鶏口牛後、九牛の一毛を取り上げてきましたが、故事成語を調べるというよりは、成語の周りをただ徘徊しているだけだったような気もします。故事成語に関するサイトは多々ありますが、これほど関係のないことばかりを書いているページもないのではないかと半分反省しています(後の半分は反省していない、こんな感じ  m(_ o^)/)。
 さて今回の牛にまつわる故事成語は中級編です。難易度というよりは聞き慣れないとか、見慣れないといった感じです。まず、「汗牛充棟」です。意味は蔵書の多いことで、そう聞くとなんとなく由来がわかってきますね。「汗牛」というのは、引越しなどで、本を山積みにした荷車を牛が汗を掻きかき引っ張っているんだな、「充棟」というのは本が家の棟木(むなぎ)まで積まれている様子なのだなと想像がつきます。棟とは屋根の天辺の部分で、山の尾根に当ります。棟に直角に渡して屋根を支えているのが梁、この棟、梁に(大黒)柱を加え、空間直交軸3本の基礎が出来るわけです。この棟と梁を合わせて棟梁と言い、大工さんの親方を指します。決してpresidentのことを大棟梁とは言いません。また梁は「梁上の君子」という故事成語にも使われます。
 閑話休題。私はなんとなくこの成語の出典は紀元前にまで遡ると思っていました。なぜかというと牛が引っ張っている荷車には本は本でも竹簡が積まれていると勝手に想像していたからです。竹簡は本に比べて遥かに重くて嵩張るので、額に汗する牛のイメージにはぴったりだったのです。そして引越しというケースもあったでしょうが、これも勝手に、戦禍から逃れるため、他のものはさておき、書物だけは持ち出そうとして右往左往している白髪のじいさんの姿を思い描いていたのでした。
 いつの頃から紙が一般的になったのかは知りませんが、紙を発明したのは紀元1世紀頃の蔡倫だと思っていました。何をもって「紙」とするかという根本的な問題はありますが、「植物繊維を細かくして水に溶き、それを漉いて薄く絡み合わせたもの」が紙だとすると、なんと、前漢のころには紙は既にあったそうです。中国科学院がそのように報告していますから、きっとそうなのでしょう。ただ、そのころの紙は平らではなくごわごわしていて字を書くには不向きだったようで、主に包装用に使われていました。字が書けるようにそれを改良したのが蔡倫らしいのです。ですから蔡倫は、最近では紙の発明者ではなく改良者ということになっているそうです。
 知らなかったなあ。さすが「ちゅうごくちゅうどく」は役に立つ!
 閑話休題。
 それで、汗牛充棟の出典は何かというと唐の柳宗元の「陸文通先生の墓表」というものです。
「孔子が春秋を著してから1500年が経った。自分の名前を冠した注釈書は左氏、公羊氏、穀梁氏、鄭氏、夾氏の五人、そのうち左伝、公羊伝、穀梁伝の三つが残っている。ところが今や、さらにそれらの注釈書が千百あり、この種の書物は《家の中では棟宇に充ち、外へ出すと牛馬が汗する》ほどたくさんあって、とても読みきれない。」(河出文庫:中国故事物語<教養の巻>を参考にしました)
 これが出典で、陸文通先生とは柳宗元自身のことだそうです。柳宗元という人は唐宋八家の一人で中唐の詩人です。ちなみに唐宋八家とは、韓愈、柳宗元、欧陽修、王安石、曾鞏、蘇洵、蘇軾、蘇轍を指し、韓愈と柳宗元が唐代の人、後は宋代の人で、蘇洵は蘇軾の父、蘇軾と蘇轍とは兄弟です。773年生まれと言いますから、安史の乱のすぐ後に生まれたわけです。20歳(793)で進士に合格(天才と言ってよいでしょう)、高級官僚として校書郎、藍田尉、監察御史などの職に任じられました。その後、礼部員外郎に任じられ、王叔文や王懐の政治改革に参加し、宦官の専権と藩鎮の割拠に反対したのですが、王叔文が失脚したため改革は失敗に終わり、王叔文は806年に殺され、柳宗元は永州司馬(湖南省零陵県)に左遷(805年ころ?)、後に柳州刺史(柳州の知事)に移りました。柳州は今の広西壮族自治区で、お隣さんはベトナムという辺りです。決してベトナムを田舎というわけではありませんが、当時の中華思想からすると、完全にド僻地です。
 私は元々、詩を鑑賞することが苦手で、西遊記などを読んでいても詩や詞を読むのが苦痛で、それらの中に西遊記を解くキーワードがあるのだという中野美代子氏の指摘を読むまでは、なんとなくすっ飛ばしていたものです。最近は年を取ったせいか、少しは、読めるようになりました。ここで柳先生の有名どこを紹介しておきましょう。
         江雪
       千山鳥飛絶
       萬徑人蹤滅
       孤舟簑笠翁
       獨釣寒江雪
(読み)
千山 鳥の飛ぶこと絶え,
万径 人の蹤(あと)滅(き)ゆ。
孤舟 簑笠(さりゅう)の翁、
独り釣る 寒江の雪。

(現代語訳)
 山という山には飛ぶ鳥の影が絶え、径という径には人の足跡が消えた。ポツンと一つの舟に蓑と笠の老人が、ただひとりこの雪の川で釣り糸を垂れている。
 これは流罪になっていた頃の詩です。
 もう一つ。
        漁翁
     漁翁夜傍西巌宿
     暁汲清湘然楚竹
     煙銷日出不見人
     欸及一聲山水緑
     廻看天際下中流
     巌上無心雲相逐
(読み)
漁翁 夜 西巌に傍(そ)うて宿り
暁に清湘を汲んで楚竹を然(た)く
煙銷(き)え 日出でて 人を見ず
欸之(あいだい)一聲 山水緑なり
天際を回看して中流を下れば
巌上 無心に雲相逐(あいお)う

(現代語訳)
 漁師のじいさんは、夜は西の岩陰で過ごし、夜明け方には清らかな湘江の水を汲んで竹を燃やす。もやが消えて日が出たと見る間に山と水の緑が現れた。もはや人かげは見えず、漁師のうたう船歌が聞こえるだけ。はるか天のはてをかえり見つつ流れを下れば、巌の上から雲が無心に迫ってくる。
(岩波文庫:中国名詞選<下>より抜粋しました)

 柳宗元は政治家にして詩人でもありましたが、「非国語」の作者でもあります。実は、私の柳宗元との出会いは唐宋八家の一人としてではなく、「非国語」の作者としてでした。「非国語」については少々説明を要します。まず、春秋各国の史を編纂した「国語」という書物があります。これは左丘明という魯の太史の作とも言われ、彼は「春秋左氏伝」を著したことでも有名です。ただ、「国語」は左丘明の作ではないという説もあり、さらにいうと左丘明の姓は「左」なのか「左丘」なのかという論争もあってこれはこれで大変面白いのですが、ここでは触れません。
 一口で「非国語」とはどんな本なのかというと、「国語」の記述にケチをつけまくる本といえば良いでしょう。「非国語」そのものは読んだことはありませんが、明治書院の新釈漢文大系の「国語」には「非国語」が頻繁に引用されています。かなり執拗に批判しているようです。この「非国語」は大変人気(?)があったらしく、それを読んだ学者が「非非国語」を作りました。それも一人ではありません。前述の明治書院の「国語」には5例の「非非国語」を挙げています。さらに、驚いたことに、「非非非国語」まで作られたというのです。
 蘇軾は柳宗元の文章を喜び、朝晩手から離さなかったそうですが、「非非国語」を著した一人に宛てた手紙の一節には
「『非国語』は正しくないと考えてはいたが、反駁の書を作る暇がなかった。あなたの『非非国語』の内容は大いに善い。」
とあります。この蘇軾の柳宗元への矛盾した気持ちと、柳宗元の「国語」への気持ちは同じだったと、新釈漢文大系の「国語」の著者、大野峻氏は指摘しています。実は、柳宗元は「国語」を愛読していたのです。読み込んだ末の「非国語」だったわけです。この柳宗元の気持ちはよく理解できます。というか、同じようなシチュエーションの本を読んだことがあります。
 それはホームズ関係の本です。ご存知の通り、ホームズは全世界にファンがいて、各国にクラブがあります。そしてホームズの研究書も数多く(それこそ千百くらい!?)出ています。それを全部読むことはとてもできませんが(やっと、汗牛充棟に戻ってきたぞ!)、ちくま文庫から詳注版「シャーロック・ホームズ全集」というシリーズが出ています。本当に詳注な本で、なにしろ本の半分は注釈なのです。そこにはあらゆる注釈が載っています。原文の記述から事件の日時を割り出す作業とか、記述の矛盾点を追及するとか(ドイルは片手間(?)に書いたので、結構記憶違いとか、単純な思い違いとかがあります。例えば、ワトソンの名前が二つあるなど・・・)。そこでホームズマニア(結構すごい肩書きを持つ人たち!)は、舌鋒鋭く、ドイルの勘違い、書き間違いを非難するわけです。ところがそれをずっと読んでいくと、彼らほどホームズやドイルを愛しているものはいないということが伝わって来るのです。読み終わると、ああ、ファンとはこういうものかと、ほのぼのとした感覚が心に残ります。きっと柳宗元の「国語」に対する気持ちはこんなんだったんだろうなあと思うわけなのです。

 閑話休題。つまるところ、全く反省していないということだ。\(^O^)/

 

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