悟浄南遷






 「大慈恩寺三蔵法師伝」という本があります。これは玄奘三蔵の取経の旅について慧立(えりゅう)が、帰国後の事蹟について彦悰(げんそう)がまとめたものです。慧立、彦悰ともに玄奘の弟子です。
 この本の最初の方に莫賀延磧という地名が出てきます。地域の呼び名でゴビ砂漠の西の端とタクマラカン砂漠の東の端に挟まれた部分で、大体、玉門関からハミの辺りです。「古くは沙河といった」とあります。天竺までの道程から見れば、まだ玄関を出たぐらいのところなのですが、玄奘はここで九死に一生を得ます。砂漠の真っ只中で水の入った皮袋が手から滑り落ちるというアクシデントに見舞われたのです。水の大半は砂に滲みこんでしまいました。砂漠で水を補給できないということは死を意味します。さすがの玄奘も、このままではとても無理と思い、10里ほどひき返しました。しかしそこは意志の塊のような玄奘、
「先に、天竺に到達する前には一歩も東へ戻るまいと願を立てた。戻るよりはむしろ西に向かって死ぬべきである。」
 と、再び西へすすみ始めました(実際は西北)。砂嵐の中、一滴の水も飲まず、四晩五日間進み続けましたが、ついに進めなくなり、砂中に臥し黙って観音を念じ続けました。五日目の夜半、涼風が吹き、すこし眠ることができました。
 そのとき、夢の中に戟を持った身のたけ数丈の神が現れ、
「どうして強行せずに、寝ているのか」
と叱咤激励、玄奘ははっと目が覚め出発したところ、10里ばかりいくと急に馬が玄奘の制止も聞かずに違う道を駆け、ついにオアシスに辿りついたのです。

 以上が水を失ってから、水を得るまでの有名なくだりです。そしてここに出てきた「戟を持った身のたけ数丈の神」が沙悟浄に前身であろうということになっています。
 この「戟を持った身のたけ数丈の神」が沙悟浄の前身であろうという結論に至るまでにはなお幾つかのステップを必要とします。一番大きい中継地点は「大唐三蔵取経詩話」です。これは南宋末に成立したと思われる、西遊記の発展過程を示す大変貴重な資料です。これの第8回に深沙神という神が橋を架けて三蔵一行を渡すという件があります。この本にはまだ八戒は登場せず、悟空はその前身の猴行者という名前で出てきます。そしてこの深沙神が沙悟浄の前身だということになっています。西遊記は非常に複雑な発展過程を経ているので正しくその道筋を示すのは困難ですが、それでも多くの研究により深沙神が沙悟浄になったというのは広く認められているところです。
 それではこのあまり聴きなれない深沙神という神さまどういった神さまなのでしょうか。まずはお姿をご覧ください。

 

 上の4つの画像は全部深沙神(深沙大王とも)です。みんな怖そうな顔をしていますが、その他にも共通点があります。まず4体とも手にヘビが纏わりついています。そして腹部には嬰児の顔があります。この赤ちゃんは修業する者の因業をすべて語るのだそうです。左端(小浜市明通寺)を除いて膝に象の顔があり、首に髑髏の瓔珞をかけています(白黒の深沙神はわかりにくいですが)。太田辰夫氏は、「大唐西域記や玄奘伝にはカーパーリカ(ヒンズー教シヴァ派のこと、髑髏<カパーラ>を持つ人の意)のことがみえているが、深沙神の像が髑髏を首にしているのはこれと関係があろう」と述べられています。
 無茶苦茶有名な神さまでもありませんが、知る人ぞ知るといった感じの神さまです。838年に入唐した常暁和尚の将来目録に「唐国の人、総じてこの神を重んず」とあるそうです。そう書いてあるからにはそうだったのでしょうが、深沙神は「大唐三蔵取経詩話」以外の文学には現れないということなので、その点、ちょっと不思議な気がします。
 話は「大慈恩寺三蔵法師伝」に出てくる「戟を持った身のたけ数丈の神」に戻ります。「大慈恩寺三蔵法師伝」にはこの神さまの名前は具体的には出てきませんが、毘沙門天であろうというのが現在の定説です。又の名を多聞天とも言い、北方の守る神さまです。元々は須弥山の北方ということらしいですが、そのうち北方ならどこでもよくなり、多聞天の立場からすると「守備範囲が増えてもうて、かなわんわ」とボヤキたくもなるところ、さらに日本では七福神の一人にまでされてしまい、「このくそ忙しいのに、ええかげんにしてんか。」と怒りもこみ上げてきます。さて「大慈恩寺三蔵法師伝」に出てくる「戟を持った身のたけ数丈の神」が何故毘沙門天なのかはイマイチはっきりしません。「戟を持っていること」や北方の守護神であることが理由のようなのですが、毘沙門天のシンボルの一つである宝塔の描写はありません。最初、西域で毘沙門信仰がなされていたということも関係しているかも知れません。とにかくみんながそう言うんだし、異議を唱える権威筋もいないようなので、きっとそうなのでしょう。そしてこの毘沙門天が化身したのが深沙神、或いは深沙神はその仕官ということになっています。深沙神は沙悟浄の前身、深沙神は毘沙門天の化身、玄奘の夢枕に立ったのは毘沙門天、肝心なところの証明は全部「みんながそう言いっている」という誠に人任せで無責任なのですが、とにかくやっと結びつきました。
 ここで話は五行説になります。五行説では、各方位に様々なものが当てられています。色なら青(東)、赤(南)、白(西)、黒(北)、黄(中央)など。動物はというと、竜(東)、鳥(南)、寅(西)で北はというと蛇がまとわりついた亀が当てられています。他の方位が1匹の動物(この世界では竜も動物です^^)なのに対して、北は蛇と亀の2匹なのですが、これは北斗七星の形からきているようです。柄杓の柄の部分が蛇、注ぐ部分が亀というわけです。
 さて、五行説から深沙神を判断すると、毘沙門天(=多聞天)の化身、また、手に蛇を持つということから、北に配置されることになります。この辺りから田秋先生は嘘と真の境界線をふらつき始めます。眉に唾をつけて、よーく気をつけてください。
 さらに話は干支の話へ飛びます。干支といってもここでは十二支の方です。まずは、ノーマルな十二支図をご覧ください。

 これが一般的な十二支の描き方です。12時のところに子がきて6時のところに午がきて、例えば子午線という言葉もここから来ています。この並べ方は実は大変数学的というか、コンピューター的です。どういうことかというと、0を認識しているからです。十二支の12匹の動物を0から11に対応させています。しかし普通の感覚からいうと十二支の1番目の動物は子、2番目が丑、・・・12番目が亥です。十二支の動物の絵を描いて小さな子供に何匹いるか尋ねたとすると、1、2、3・・・12と数えるはずです。合理的なのは0〜11ですが、直感的なのは1〜12なのです。何をくどくど言っているのかというと、子を1(時の位置)、丑を2(時の位置)へ移動させた図を描きたいのです。それが下の図です。

 なんらかの理由で深沙神が亥によって北の座を奪われたとしましょう。深沙神はどうしたか?蛇を手に持つ深沙神は軸の対極、即ち南に位置する巳へ移動したのではないか?これが田秋先生の仮説です。それは五行では西に位置した虎が申によって追い出され、対極にある十二支の寅の位置へ移動したのと同じです。

 一つ大変重要なポイントがあります。それは今述べたような操作を西遊記の作者(或いは編者)が意図的に行った可能性は全くないということです。猴行者が作られた時期と八戒(或いは八界)が作り出された時期は相当離れています。ですから猴行者を作った人と八戒を作った人とは別人です。西遊記制作の虎の巻が代々秘伝の書として伝わった訳でもないのに、そういうことがあるはずもありません。あくまでも田秋先生の仮説は、現在の西遊記の形態を解釈しようと思えばそのようにも捉えることもできる、という立場です。ですから過去の分析にはほとんど役に立ちません。未来の新しい西遊記のヒントには、或いはなるかも知れません。