注:西暦Rは現実の西暦と干支を対応させたものである。 | |||||||||||
干支 | 西 暦 | 元 号 | 月 | 日 | 干支 | 西 暦 | 元 号 | 月 | 日 | 西暦R | |
辛丑 | 11 | 12 | 1 | 辛未 | 641 | 15 | 6 | 1 | |||
壬寅 | 12 | 1 | 2 | 壬申 | 42 | 16 | 7 | 2 | |||
癸卯 | 13 | 2 | 3 | 癸酉 | 43 | 17 | 8 | 3 | |||
甲辰 | 14 | 3 | 4 | 甲戌 | 44 | 18 | 9 | 4 | |||
乙巳 | 15 | 4 | 5 | 乙亥 | 45 | 19 | 10 | 5 | |||
丙午 | 16 | 5 | 6 | 丙子 | 46 | 20 | 11 | 6 | |||
丁未 | 17 | 6 | 7 | 丁丑 | 47 | 21 | 12 | 7 | |||
戊申 | 18 | 7 | 8 | 戊寅 | 48 | 22 | 1 | 8 | |||
己酉 | 19 | 8 | 9 | 己卯 | 49 | 23 | 2 | 9 | |||
庚戌 | 620 | 9 | 10 | 庚辰 | 650 | 24 | 3 | 10 | |||
辛亥 | 21 | 10 | 11 | 辛巳 | 51 | 25 | 4 | 11 | |||
壬子 | 22 | 11 | 12 | 壬午 | 52 | 25 | 5 | 12 | |||
癸丑 | 23 | 12 | 13 | 癸未 | 53 | 27 | 6 | 13 | |||
甲寅 | 24 | 1 | 14 | 甲申 | 54 | 28 | 7 | 14 | |||
乙卯 | 25 | 2 | 15 | 乙酉 | 55 | 29 | 8 | 15 | |||
丙辰 | 26 | 3 | 16 | 丙戌 | 56 | 30 | 9 | 16 | |||
丁巳 | 27 | 貞観元 | 4 | 17 | 丁亥 | 57 | 31 | 10 | 17 | 627 | |
戊午 | 28 | 2 | 5 | 18 | 戊子 | 58 | 32 | 11 | 18 | 28 | |
己未 | 29 | 3 | 6 | 19 | 己丑 | 59 | 33 | 12 | 19 | 29 | |
庚申 | 630 | 4 | 7 | 20 | 庚寅 | 1 | 20 | 630 | |||
辛酉 | 31 | 5 | 8 | 21 | 辛卯 | 2 | 21 | 31 | |||
壬戌 | 32 | 6 | 9 | 22 | 壬辰 | 3 | 22 | 32 | |||
癸亥 | 33 | 7 | 10 | 23 | 癸巳 | 4 | 23 | 33 | |||
甲子 | 34 | 8 | 11 | 24 | 甲午 | 5 | 24 | 34 | |||
乙丑 | 35 | 9 | 12 | 25 | 乙未 | 6 | 25 | 35 | |||
丙寅 | 36 | 10 | 1 | 26 | 丙申 | 7 | 26 | 36 | |||
丁卯 | 37 | 11 | 2 | 27 | 丁酉 | 8 | 27 | 37 | |||
戊辰 | 38 | 12 | 3 | 28 | 戊戌 | 9 | 28 | 38 | |||
己巳 | 39 | 13 | 4 | 29 | 己亥 | 10 | 29 | 39 | |||
庚午 | 640 | 14 | 5 | 30 | 庚子 | 11 | 30 | 640 |
このように考えると、取経の旅は「大体」14年かかったのではなく、「びったし丁度」14年かかったということで、大雷音寺に到着したのは貞観27年9月12日に違いないということがわかります。 さて、この西遊記暦が単なる思い付きではない、たまたま「貞観十三年、歳次は己巳、九月甲戌、初三日、癸卯の・・・」と書いちゃったのではない、ほぼ確実な証拠があります。それは、94回134ページの、婚礼の日を「本年本月十二日でございます。壬子の良辰・・・」と奏上し、「きょうは八日、すなわち戊申の日で、・・・」と答えるところです。これは、西遊記暦の奇数月の暦に一致します。そして「本年本月十二日」の「本月」は話の前後関係から3月のことではないかと思われるのです。この一致を何の計画もないところで起こったただの偶然とするのは、どうも無理があるように思います。 ここで、現実の暦を見ておきましょう。玄奘が取経の旅に出た時期は諸説ありますが、大体貞観2〜3年というところで、貞観13年ということはあり得ません。今ここで現実の貞観13年の干支を調べてみましょう。貞観13年は西暦639年に中ります。干支は60年で還暦しますから、過去の干支は簡単にわかります。前にも書いたように私の誕生年は1954年で、その干支は甲午です。1954年(=634+1320[60の倍数])が甲午ですから634年が甲午、そこから指折り数えていくと639年は己亥になります。ここで再び上の表をみてみましょう。己亥というのは小説上の出発年のちょうど真横にあります。この”真横にある”ということに何か意味があるのでしょうか。 ここで私はもう一つ仮説をたてました。干支というのは還暦という言葉からもわかるように、60年で元に戻るわけですから、下の図のような環状に描くことができます。 この図に現実世界の貞観13年の干支である「己亥」と西遊記世界の貞観13年の干支に当たる「己巳」に色づけしてみます。 この図からわかるように、西遊記暦においてお互いが真横に並ぶということは、環状図においては対極に位置することを意味します。西遊記の干支と現実の干支とはこのように大変特徴的な関係にあります。西遊記の作者は、間違いなく現実の暦を念頭において西遊記の暦を作成したというのが私の仮説です。 ところで、しばらくこの図を眺めているとこの軸に対して直交軸を引いてみたくなりませんか。ね、なるでしょう!え、ならない?いや、そんなはずはない、きっと引いてみたくなってるに違いありません。うそ、いけないある。にゃに?うそないある言うか。。。ううう・・・とにかくワタシ、引くアル! この直交軸が指し示す4つの干支を書き出してみると、己巳、甲申、己亥、甲寅になります。この辺りから話は暦から離れていきますが・・・ 今、干支の「支」だけを見ると、巳、申、亥、寅です。ヘビ、サル、イノシシ、トラです。これでだけでは何のことかよくわからないですね。西遊記研究の御三家のお一人、中野美代子氏に「イヌのいない動物誌 桃太郎から『西遊記』まで」(日本及び日本人 通号1565号 1982)という論文があります。内容を一言で言うと、桃太郎の三従者と三蔵法師の三従者について、比較しながら色々論じたものです。その中で沙悟浄の正体についての考察があります。 その論考を要約すると、まず、沙悟浄が下界に落とされ流沙河に住んでいることが、正体を考える第一の手がかりとなります。昔(西遊記が書かれていた頃)、中国では流沙河はその字面から河だと思われていました。また、流沙河は弱水と混同もされていました。それは西遊記の記述でも同様です(第8回:P298、第22回:P48)。次に中野氏は弱水つながりから、「山海経」の「あつ窳('あつ'の漢字はPCでサポートされていません。'ゆ'の方も見づらいですね。以後、両方ひらがな表記にします」にイメージを膨らませます。 「山海経」には何箇所か「あつゆ」が出てきますが、概ね2種類に分かれます。一つは北山経に出てくる「あつゆ」で、これは牛のようで赤い体、人面で馬足、声は嬰児で人を食う、とあります。もう一つは、「竜の頭で弱水に住む。・・・人を食う(海内南経)」、「蛇身人面(海内西経)」、「竜首、これは人を食う(海内経)」と描かれるものです。山海経にはかなりたくさんの挿絵があるのですが、残念ながら「あつゆ」のものはありません。人を食うところは北山経の「あつゆ」と同じですが、イメージとして蛇や竜に近いものであるというところが違います。山海経に注を書いた郭璞は、「あつゆはもともと蛇身人面であったが、弐負(じふ)の臣に殺され、そのあとでまた化して竜首になったのだ」といっているそうです。この元々は蛇で、人を食う「あつゆ」が、深沙神(大唐三蔵取経詩話に現れる神、蛇を持って描かれることが多い)を経て沙悟浄になったのであろうというのがこの考察の大筋です。この論文でも触れていますが、元広島市安佐動物公園々長の小原二郎氏は、沙悟浄のモデルはヨウスコウカワイルカではないかという説を唱えられています。イルカとヘビではあまり似ているとは言えませんが、どちらも水に住む細長い生き物(ヘビは陸にも住みますが)ということは言えますね。ただ、ヨウスコウカワイルカの詳細がわかってきたのは20世紀に入ってからのことで、それまでは目にすることはあっても、正体のよくわからない気味の悪い恐ろしげな生き物と言うような認識だったのではないでしょうか。 沙悟浄の正体がヘビであるという説は、私には中々説得力があるように思えます。確かに西遊記を読んでいても水中を得意とする描写に出会います(黒水河事件、通天河事件等)。 かなり回り道をしましたが、直交軸が指し示した4匹の十二支、ヘビ、サル、イノシシ、トラの話に戻ります。勘の良い方ならもうおわかりですね。サルは孫悟空、イノシシは猪八戒(イノシシはブタのご先祖さま)、ヘビは沙悟浄と、4匹中3匹は西遊記の主要なキャラクターなのです。そうなると、トラだけは主要なキャラクターではない、ということがあって良いものでしょうか? 西遊記の主要キャラクターといえば、三蔵、孫悟空、猪八戒、沙悟浄です。馬になっている西海竜王の三太子(三男)の玉竜も取経の旅に参加していますが、'主要'かと言うと他の4人には遠く及びません。ていうかぁ、三蔵法師しか残っていないしぃ。・・・三蔵法師ってトラだったの!? 沙悟浄の正体を探る、或いは孫悟空や猪八戒がどのように形成されてきたかについての論文は数多くあります。また、三蔵法師の研究も数多くあるのですが、三蔵法師を十二支に例えると何に当たるのかという論文は、私の記憶の範囲内にはありません。そりゃそうですね、元々、実在の人間なのですから、人間が十二支にない以上、三蔵法師と十二支との関係をわざわざ詮索しない方がまともと言うものです。 しかし、三蔵とトラを結びつけた研究はたくさんあります。非常に有名な題材があるからです。 この二つの絵は20世紀初頭、敦煌の莫高窟で見つかったもので、実は西遊記が発展を遂げた頃の中国では忘れ去られていたものです。左の絵は絹本で高価なものですが、右の方は紙に描いたもので、庶民にも手に入るお札のようなものです。ということは当時敦煌ではこの題材はよく知られていたことになります。 では、何故行脚僧(三蔵法師)はトラを従えているのでしょうか。この話題も別に章を立てて論じるべきものですが、簡単に言えば、トラを従える羅漢、西方(天竺へ行くには、直線では南西ですが、とりあえずは西へ向かいます。)の最強の動物であるトラに守ってもらう、五行思想から西→トラの連想、などの視点で研究されています。ですからこのトラは、十二支からではなく五行思想から論じられるべきなのです(但し、後でサルが西を占領してしまい、トラはしかたなく東へ移ります。そのときに十二支のトラになるのです)。 西遊記を見てみましょう。長安を出立して最初に出会うのが寅将軍(と熊山君と特処士)、その難の後に出食わすのがまたトラで、それは劉伯欽に退治してもらいます。その後悟空を五行山から助け、両界山で出会うのがまたしてもトラ、今度は悟空が一撃で仕留めます。宝象国事件では、三蔵法師はトラにされてしまいます。三蔵法師が道中、捉えられることは数限りなくありますが、何かに変身させられてしまうのはここ、トラだけです。 現在のところ、私は三蔵法師はトラである決定的な証拠は持っていません。しかし、この仮説はかなり魅力的だと思っています。この観点に立って西遊記の道教的な解釈をしなおすと新たな発見があるかもしれません。西遊記の暦の話で始まりましたが、最後は論題とは無関係な終わりを迎えてしまいました。参ったなぁ・・・ |